住まい方の哲学
最小限の家は申請が中断している。役所に行く時間がない。せめて稲作が終われば、と思っている。その間に、家というもののを少し勉強している。「何故、近代住宅では、玄関と床の間がなくなったか。」玄関とは何か、玄とは禅と同類。老子にある言葉だそうだから、玄の方が思想的には古語。玄が悟りの境地のようなものであるなら、関は関門の関、入り口のこと。玄関を家に設け、日常は利用しない。武家社会で普及する。庶民の家では、玄関を作ることは禁じられていた。もう一つ無くなったものが、床の間、とことある位で、寝る場所が最初。たぶん実用上から、一段高くする。そのうちに高い場所だから、貴い場所に変わる。上段の間へ変貌。その貴さが神聖と、形式化を経て、床の間と言う、象徴性の高い場所になる。これこそ日本人の家の意味を、内包している。
玄関の方から考えて見る。最近の傾向で言えば、エントランスホールだ。ちょっと普段着ででてきにくいような、全くよそ行きな、異国情緒溢れた面構えの、玄関がある。それは個性的であるようで、全く無個性が特徴。日本の伝統から、遊離し。無国籍風。その理由は、建売住宅にある。商品だから、包装が大切、見栄え重視と言う事で、意味のない装飾をつける。これは、風呂屋の玄関屋根と同じ事、跳ね上がった、大げさなもったいぶった造作。冨の象徴としての家屋。一般農家の家屋は本来作業場。家畜小屋。住まう方は従では無かろうか。作業場は没個性の合理性こそ、重視。玄関の省略。土間からの出入り。寺院なども、玄関は本堂と庫裏との渡り廊下を玄関の位置とし、日常では利用しない。出入りは台所につながる、土間を出入り口とする。玄関の奥に存在する精神を求めない以上。エントランスホールだけの家となる。
床の間は仏間とは違う。ここでの神聖は祖先が存在する場では無く。改まった空間を意味する、精神的意味性が強い。この点が面白い。寝床を格上げして、ついには神聖領域に。何故暮らしに、神聖領域が必要なのか。今は神聖など不用だから無くなった。暮らしが、深まった時代があった。江戸時代。茶道の茶室から来たという。茶室は最小限の家には、様々参考になる。仮にとか。形としてとか。作法の見立て。暮らしの形式化。形式を通しての、別領域を暮しに持ち込む。芸術の場。掛け軸の登場。季節、行事、架け替える絵画。置かれる器があり、花がいけられる。壁にわずかにへこんだ、床の間を、小さな農家の家で見たことがある。土壁で囲まれた凹みが、そのごたごたの中で、別空間になる。それを必要とする暮らし。玄関ともども失われた、住まい方の哲学。
家は舟である。確か、「時の舟」家は貝殻のようなシェルター。家は玄関なのかもしれない。むしろ玄関に住んでいるのかもしれない。つまり、その奥がない。暮らしと言う哲学が失われ、入り口の意味性の装飾が拡大した。虚栄の形に一応暮しているのかも知れない。エントランスホールが、実は居間である。靴を脱ぐと言う行為を課すことで、あるいは、刀を置く。裃をとく。ここからは、住まいの場なので、社会を持ち込まない。厳然たる社会の存在の希薄。隠れるべき、時の舟は要らなくなる。隠すべき、奥の奥にひそかに存在する神聖も要らない。最小限の家は、そぎ落とした、ものではありたいが、決して、武士道的な暮らしを感じさせない、やせ我慢の家であってはならない。住まい方を哲学する。玄関、床の間の復権は必要。そして肝心な暮らしの哲学の家。