野焼き「土球」

   


野焼きで焼いた、土球が戻ってきた。土の力を表現したかった。あの田んぼでも畑でも、鍬でグサット土を返すときの、土の感触を表わしたかった。土の力は無限だ。命あるもの全てが土に帰る。命あるものすべからく土から生まれる。焼き物は生命の存在を表わす物だと感じている。観念的な平面と違い、具体的な存在として物としての力を持つものだと思う。日頃絵を描いていると、観念上の論理展開に引き寄せられる。その点、手触りとか、形態とか、日頃無視している感性が、もたげてきて、面白い体験になる。

これは見た目より薄いものだ。5ミリ程度の厚みで出来ている。中には中央に支えの柱があり、2センチ角ぐらいの中のくり貫かれた立方体の、やはり陶器片が入っている。だから持ち上げようとすると、割合軽いカラコロと音が鳴る。音がどのように鳴るかは、出来て見なければわからなかったことだけれど。以外に高音だった。素焼きの土の響きというより、もう少し石のような、結局須恵器の響きというのだろうか。音がするなど思わないで持ち上げた時に、中から、カラコロと音がする。重いと思った玉が、意外な軽さで、軽やかな音を奏でる。その響きが、土の持つ力なんだと思う。全てを飲み込んでしまい、全てを産み出す。

野焼きの様子は写真の一覧があるので、見てもらえば分かるが、土をそのまま積み上げる。素焼きなしで、焼いているので、状況次第でどう変わるかが面白い。温度も1000度を超えたので、もう一工夫すれば、1250度まで行くのかもしれない。そうなると、もう少し多様な調子も期待できることになる。まだまだ、工夫次第で可能性に満ちている。この野焼きを指導してくれている、ちょろりさんは相当に個性的な作家だ。陶芸分野では前衛作家と呼ばれるのかもしれない。というより体質的な人だ。自分の感じている物を形に出来る人なのだろう。ちょろりさんの雰囲気が、皆に浸透して、実に開放的な創作の場に成る。

実は次の作品のアイデアが煮詰まっていて、やってみたくて仕方がないのだが、いつやれるのだろう。それは川だ。流れだ。流れを一枚の板に作って水の中に置く。水を通して、その表現された水の様子が見えるという作品なのだけど。庭の池に沈めておくのも面白いかもしれない。

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