住みたい町・小田原
土地探し、家探しは、随分した。あちこちに住んだ。全国を絵を描きながら、歩いていた。その上で、住もうと決めたのが、小田原だった。小田原生まれの人は、余り小田原をよく言わない。よく言わない人が多い。青い鳥ではないが、どこかにもっといい町があると、思い込んでいるのかもしれない。
以前、土地探しで歩いた房総では、土地の人と話をすると、必ずこんないいところは無いと言われる。あまりに好い、好いと言われるので、これは気質の問題だな、と感じた。自己肯定的であるか。懐疑的であるか。それからすると、小田原の人は懐疑的だといえる。懐疑的といえば、北村透谷が小田原の人だから、うなずけるのだが、文学的気質の町と言える。
北原白秋は、殆どの詩作を小田原で行った。尾崎一雄氏はいかにも小田原風だと感じている。小田原の人を不思議だと、思ったとき読んで見ると思い当たるところがあるかもしれない。小田原の人は、なかなか複雑なのだ。他の町と明らかに違うのは、よそ者が、常に通り過ぎてゆく町であった所だろう。
先日、考古学をやられている、Sさんから教えていただいたのだが、この地域には、3つのの交流の道筋があった。一つは、丹沢の山越え、これは山梨、長野、との交流。メインが、箱根の来たの足柄越えルート。これは、中世までの大きな東国への入り口になる。そして、古代は重要視しなければならないのが、海ルート、伊豆を廻って海岸沿いに、入ってくる。そして、河川をさかのぼり、港を作っている。
いずれにしても、地理的に足柄地域が、交流の要のような地点であったことは確かだ。
鎌倉に幕府が出来た中世以降、より足柄地域の地理的重要性は増す。江戸期も箱根越えの、足ごしらえの地として、役割が増す。そして現代の足柄を考えると、東京、横浜と言う、限界を超えた巨大都市からの距離が、絶妙に位置する。通勤圏としては、若干離れている。高崎、宇都宮、水戸等とほぼ同じ距離に位置する。この距離から、ある程度の自立性を必要とされ、東京に同化されることなく、それなりの気風を維持出来ている。
足柄は農地と宅地、自然環境のバランスが、人がまともに暮すことを可能にする、ぎりぎりのところを維持している。酒匂川と言う、大きな流域を持つ川が中心に流れる。両岸には30万人ぐらいは自給できる。平野が存在する。その背景となる。山麓は広く、3方を囲んでいる。南は相模湾が広がる。これからの日本人が暮らしを模索するとすれば、足柄ほど、可能性を秘めた地域は無いと、考えれれる。
この地域が目指すものは、ありきたりの路線では無いはずだ。多分どの地域もまだやったことの無い、未来の日本人の暮し方の、モデルケースを問える、地域だと考えるべきだろう。これはスローライフの町とか、癒しの町づくりとか。行政なら言う所だろうが。難しいのは、先頭を切るということだ。どこぞにあると言う事でなく。これから新しい事をやると言うのは、前例主義の行政には無理なことだ。暮らす一人一人が作り出すものだろう。
新しい暮らしを求めて、関東では長野や福島や、岩手に行く。しかし、そこでの暮らしはあくまで田舎暮らしで、日本の今動いている社会と、距離のあるものになる。足柄は、生々しい現実の中で、次の暮らしを模索できるところが、面白い。