開田高原
木曽福島から、御嶽山の方に西に登ると、開田高原がある。1000メートルの標高があり、農村風景が展開する。独特の場所だ。多分相当の古い時代から、開かれた地域だと思う。石器時代の遺物も出るし、縄文時代の遺跡もある。何となく、日本列島は海の方から開発されて、山の方は後になったような意識があるが。むしろ山の方が早く人が住んでいて、徐々に平野部に降りてきたということが、本当らしい。山のほうが暮らしやすく、平野部のコントロールは大きな土木工事ができるようになってからの事だろう。
530年には、木曽駒の産地として、記録があるそうだ。それが、丁度仏教が渡来した頃の事だ。馬は大切なもので、軍事にも、農耕にも、重要なものだった。だから、当時から重要な地域として、日本中に意識されていたと、見なければならないだろう。そうした歴史の深さが、開田高原にはある。これが写生地として、この場所を深いものにしている。
もうひとつは、そうした風土を形成している御嶽山の存在だ。御嶽山は北アルプスから飛び地のように離れて存在する。立山・槍穂高から、乗鞍までを、北アルプスの雄大な繋がりと考えれば、一つ離れた状態の、御嶽山の3000メートルの独立峰としての、存在は群を抜いている。その広い山ろくを形成するのが、開田高原だ。これが景観を雄大な、際立った物にしていて他に類を見ない大きさだ。
開田の名の示すように江戸期にこの高原に田んぼを開いた歴史がある。志賀高原の田ノ畑湿原もそうだが、田を開く日本人の思いは、信仰といえる格別な物がある。このことから、日本人の祖先は、稲を持ってこの列島にやって来た人々であろう。と推測する人もいる。本来南方の植物である稲を、なぜ寒い青森、秋田まで、稲作を広げていったのか。栽培法の工夫。稲の品種改良。様々な思いをこの稲という植物一点にかけたような所が、日本の農業にはある。稲が作れないところというのは、即、悪い土地、劣る土地という意識がされた。納税から、土地評価まで、全てが稲の耕作に準拠している。
開田高原では、血のにじむ思いで、水路が引かれ、田が開かれた。このことがこの土地の思いの深さになっている。開田高原で絵を描くとき、いつもこの事に取り巻かれる。この土地で生きてきた、この土地が育んできた、様々な命の連なりが、私の絵を描く気持ちを取り巻いて、今肉眼で見えている、風景をただならぬ物に、実現してくれる。
歴史が視覚化されると言うと、お地蔵さんや水車があるとか。昔の街道があるとか。具体的な何か拠り所がある、というのではない。ある意味神秘主義に受け取られかねない危険がるのだが、明らかに視覚が捉えるところが違うのだ。この視覚は絵画する視覚で、生活する視覚では無い。
なぜ同じ山でも信仰の対象になる山があるのか。拝みたくなる絶対的な存在を、強く感ずる場所がある。これは写生を続けていると、見えてくるものだ。何か力が湧き上がっている場所がある。同じ山でも、ムーブマンのある山と無い山がある。あのセザンヌのように、こちこちの即物的な人間でも、サン・ビクトールを描き続けている。あの山はサンと付くのだから信仰の山だろう。
開田高原に人が築いた歴史と、御嶽山という存在が、あいまって、私にはかけがえの無い写生地となっている。