批評のないところに芸術は生まれない。

   



 批評あるいは評論でもいいのだが、それが無くなったところに芸術も、文化も、政治もまともなものが生まれることはない。文化、政治はともかく、絵画分野では評論が失われていると考えていいのだろう。たぶん私の視野の狭さから来る判断なのだろうが。

 絵は小林秀雄氏を読んで教えられた。そして吉田秀和氏の文章から音楽というものを知った。政治は花田清輝氏から学んだ。そのもを知る前に、こういうことがあると評論で学んだ。頭でっかちの嫌みな子供だったのだ。

 小林秀雄を通して、絵を学んだのは中高生のころである。絵を好きになろうと考えて、小林秀雄の書いた『近代絵画』『ゴッホの手紙』 を繰り返し読んだ。好きなもののことが良く分からなかったから、絵は何をするものかを知りたかった。三つ子の魂ではないが、今も染み込んでいる。

 そして、絵は自己表現するものだ。芸術は社会を変える為のものだという事を小林秀雄から教えられたのだと思う。それ以来、人の絵を見るときはいつも社会をこの絵は変える力があるのかという視線で見ていた。すると、日本の絵には社会を変えるようなものはない。と思うようになった。

 そして岡本太郎の芸術論に出会う事になる。日本の美術全般を、床の間芸術の建具屋職人だと切り捨てる。そして縄文時代の日本人にある原始的表現の中に芸術を見出す。絵を見て絵を学んだというより、評論から絵のあるべき姿を学んでいたと思う。

 ボナール展を見て、ボナールが好きになった。ゴッホ展を見てゴッホに衝撃を受けた。マチス展を見て絵画の方角のようなものを感じた。その眼は小林秀雄の眼であり、岡本太郎の眼だったのだと思う。その結果、日本の普通にある絵画を見てもますます社会を変えられる芸術とは少しも思えなくなった。

 ゴッホ展でゴッホの絵を見て、自殺を思いとどまった人を実際に知っている。泣いてその時のことを語っていた。なるほど絵は人を救済できる力があると私も共感した。私はモーツアルトに救われたことがある。ほかの物すべてを受け付けないときも音楽は入ってきた。

 そして、今思えばだが18歳の生意気な高校生が季刊藝術に出会う事になる。創刊号から全てを捨てられないで、持っているほど様々に刺激を受けた。創刊号は1967年春とある。古山高麗雄が編集長である。私の絵に対する眼はどんどん評論家になっていった。

 季刊藝術が2冊欠損でネットで売られていた。500円で一人だけの落札とある。これほど内容のある評論中心の雑誌の今の評価である。芸術の評論に取り組めば、外せない本だと私は考えている。私の頭は季刊藝術の領域内のことだから、500円以下という事になる。批評文化は失われている一つの姿なのだろう。

 もし今の日本に絵画評論という分野を目指す人がいるのなら、季刊藝術を外すはずがないと思うのだ。評論がなくなったのか、評論が変わったのかどちらかだろう。確かに「美術手帳」は今もある。ウエッブでも見れるようだ。何度か読んでも見た。社会を変えるような観点を見付けることは出来なかった。何のための美術なのかという立ち位置が違う。

 私の学生時代は思えば信じがたいことだが、高度な美術評論が雑誌としていくつも成立していたのだ。季刊藝術では、音楽のこと、文学のこと、芸術というもののあるべき姿が、評論として論じられていた。何しろ、ここで島倉千代子の意味や襟裳岬の岡本おさみの現代詩としての意味を教えられたぐらいだ。

 遠山一行・江藤淳・高階秀爾・古山高麗雄 が編集者にいる。ここで高階秀爾の文章で日本の明治初年ころの苦闘する日本の画家達のことを知ることになる。その苦闘のようなものが、明治以降の芸術としての絵画に眼を開かなければならないことを知る。マチスの研究者の日本の近代絵画論である。

 絵を描いて生きて行こうと考えていたのだけれど、その当時描いていた絵も何枚か残っているが、自分の描く絵との乖離が大きく、どうにも暗く反映している。社会を変えるのが芸術の目的と頭では思いながら、私自身の気持ちは70年前後の政治の時代の中に紛れ込んでいた。

 私の絵が社会に影響を与えられるはずもない。嫌そうでもないと悩みながら、絵を描いていた。大学の旧生協のアトリエで絵を描いていた。夜中にバリケードから出てきた、中核派の人間から、お前はこんな時代に悠長に絵を描いているのかと怒鳴られた。バリケードなんか張っているより、自分の描いた絵によって社会を変えているのだと言い返した記憶がある。

 大学時代は、FMファーンは毎月買うほどクラシック音楽を聴いていた。放送予定に赤線を付けて、録音をしては聞いていた。その中で吉田秀和の音楽批評に出会う事になる。その時から耳は吉田秀和になろうとしたのだろう。

 モザールというクラシックの喫茶店があって、ケッヘル番号が会員番号になっていた。私は525番にしていた。コーヒーを頼むときに、その日聴きたい曲をお願いすると、かけてくれる。モーツアルト好きになったのはその時間のためだと思う。

 モザールのご主人はFMラジオで毎週音楽を語っていた。金沢の音楽文化を担っている人の気がした。そういえば労音にも入れて貰った。労音の御陰で金沢で良い演奏に出会うことができた。良い演奏があれば、福井や富山まで聞きに行くほどだった。グレングールドとか、イムジチとか、と言ってもそんな耳があったのかどうかはかなり疑問だ。

 頭でっかちの半可通。音楽はバッハ、モーツアルト、ベートゥーベン、ぐらいで良いと思っていた。何故その後色々やっているのかがよく分からなかった。まして作曲をしないで演奏だけして満足している人の心境が分からなかった。そこまでやるなら、自分の音楽を表現したく成らないものかと思った。

 音楽でも評論家の評論を読んで、良し悪しを考えるようになったのだ。バッハ論には特別の興味あったが、演奏家の善し悪しはまったく興味がなかった。つまり耳のレベルが低くて、微妙な違いなどどうでも良かった。いいなあーと感じる前に、このように聞こえるはずだが。楽譜を買ってきて、聞きながら追っていた。そのくらいなんでも理屈で理解しようとしてきたきがする。

 批評が失われた時代にある。絵画が商品化したからだろう。販売の宣伝文句のような物がいかにも美術批評かのようにある。そもそも販売目的の個展に行って、本音で絵のことを語ろうとは思えない。この絵をだめだと言えば、お客さんが帰ってしまう。

 現代は商品絵画の時代。個展に行っておめでとうございますが挨拶である。そんなくだらない挨拶しか出来ないなら、個展などやるべきではない。個展はおめでたいような物ではない。作家の命がけの表現の場なのだ。だから個展は止めた。おめでたいとは思われたくない。




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