もうマスクを外せないかも。
マスクをしていない人を見かけるようになった。先日飛行機に透明のマスク状の物をした人がいた。テレビで見るようなプラステックマスクである。これではだめかどうか、確認しますと係員が問い合わせた結果、これで良いという判断だった。不安に感じた。座席が遠ければ良いのだがと思った。
石垣島では5万人の人口で、一日の感染者数が、223名とラジオで言っている。このところそんな数の日が続いている。経済のためには仕方がないと言うことだが、これでは経済も停止しそうだ。役所もコロナで休む人が急増している。仕事はどこでもきつくなっている。経済のためのコロナ解除が裏目に出ている。
路上寝も8人と言っていた。観光客も急速に増えている。どうなるのだろうか。感染密度で言えば、日本では過去最高の島になってしまった。もう6人に一人は感染した経験があると言う数字になった。よく言われているのが、その倍の人が感染したことがあると考えていいらしい。とするともう3人に一人は感染者の島と言うことになる。桁外れである。
満席の飛行機の中は感染のリスクは高いと思う。今現在、過去最大の感染者数が続いているのが、石垣島である。若い人が多いようだが、もちろん年寄もいて、年寄は重症化する人もいる。八重山病院では一般外来が止められた。
コロナが解決したわけではない事を充分考えなければならない。観光客が来たので蔓延したという人も居るが、観光客が石垣で感染して帰って行くというのが実態だろう。島という環境で元の生活に戻れば、忽ちに感染が再開してしまうという実験をしたことになる。
もうコロナで疲労した。マスクも取りたい。出来るのは野外活動だ。野外であれば感染リスクは極めて小さいと考えている。風の強い石垣島であれば、まず野外で感染する危険は相当に低い。マスクなどしないでも、充分活動が出来る。人間隔離状態では人間ではなくなって行く。特に成長期の子供達への影響は深刻なことになっている気がする。コロナ世代という物が出来るのではないだろうか。
石垣島の湿度と暑さで、マスクをしていれば熱中症の危険が高まる。野外であれば、子供達のマスクはもうしない方が良いだろう。若い人の感染は仕方がないとして、年寄が感染すれば重症化して病院の機能停止にも繋がる。
年寄は極力注意しなければならない。コロナは年齢別で対応を変えるべき病気だ。年寄だけの外出禁止を考えるべきだ。石垣島ではどんな病気でもかかることは出来ない状況になった。もちろんケガも出来ない。熱中症もだめだ。十分注意しなければ。
そもそも日本は花粉症でマスクを何故しているのかと、奇妙に思われてきた国だ。コロナが蔓延し、マスクはいよいよ定着した。定着して3年が経過した。もう外せないのかと感じさせるほど、みんながしている。最近野外では2m離れていればマスクは要らないと政府が発表しているが、外して歩いている人はまだ少ない。私は野外ではマスクは外している。
政府は根拠があってマスクを外しても良いと言っているのではなく、経済のためにはコロナ感染を受け入れようと言うことなのだと思う。これ以上経済が悪くなれば、コロナどころではないと考えたに違いない。コロナは収まったわけではなく、石垣島では過去最高水準の感染の蔓延である。
一方でマスクをしている人は、暑いから外そうかという空気でもない。しっかりとマスクをしている。実はマスクが外せなくなっているような気配だ。どうもこれはコロナマスクではなく、自己防御マスクになったように見える。イスラム教徒の女性のベールのようなものではないかと感じている。マスクは日本教の新しい戒律になるのかもしれない。
日本は近代国家の中では随一と言われる女性差別の深刻な国だ。それはやはり日本教から来ていると思われる。日本教では男が有能な生き物だから、女性を差別しても構わないという教えが存在したのだ。儒教的な思想によって、封建社会が確立されており、その中で男尊女卑社会が固定化されてきた。
アメリカの人種差別と同じで、だんだんに解決するどころか、社会の中で取り除けない形で内在化している。時々それが浮かび上がる。日本には女性差別などないと考える人がいるくらい、むしろ見えない形のひどい差別がある。今の状況で差別が無いと考えるほど鈍感な差別社会。
西欧の民主主義が日本にも広がり、表面的には法律的には男女差別は無くなったとされるのだが、それはあくまで建前で、地域社会は相変わらず男性中心に動いている。地域社会に置いて、女性の自治会長というのは、会社経営者や国会議員同様に、極めて少ない。
それがマスクとどう関係するのかという事だが、女性はマスクをしていた方が日本では楽なのだ。女性差別があるという事は当然容姿差別も強い社会という事になる。この関係は複雑なところもあるが、差別はされているが容姿による別格枠扱いがあるという事になる。
女性差別を容姿で、別枠が存在して飛び級があると言うこと。何故このこととマスクが関係するかであるが、マスクをしていると防御されている感じが持てるのだろう。顔の半分が見えないのだから、目とまゆ毛とおでこと前髪ぐらいなら
何とかなる。
何とかなる。
まあ、とんでもない話なのだが、これが一応タブーのような、社会に内在する暗闇のようなものになっている。だから、国会議員の選択ですら、容姿が冗談めかして、選挙応援の言葉になったりする。とうぜん、ポスター写真は中学生のプリクラかと、あるいはお見合い写真家というような状態だ。ああ、お見合い写真などというものは今さすがにないのだろうが。あるのであれば全員がマスクをすればいいだろう。
先日東京に行ってびっくりしたのは、女性の前髪の微妙に変化するおしゃれである。夜目遠目傘の下である。マスクで目しか見えないところに前髪でベールをすれば、ほとんど誰だか判別も出来ない。この安心感なのだと思う。一反この安心の中で生活すると、なかなかマスクは取れないのではないだろうか。
別段それでいいと言えば言える。日本教の戒律の中に、マスクをしなければ人前に出てはいけないという物が確立されれば良い。奇妙な風習のような物だが、マスクが社会を変えた一つになるのかもしれない。実はそれは顔認証社会である。
中国では顔認証が進んでいて国民の行動がかなり捕捉されている様子だ。こうなるとマスクは自己防御の一つの武器になる。顔認証されないための変形マスクがある。マスクに違う顔になるような絵をプリントする。新しい意味でマスクが続く。
マスクをしていても顔認証できるシステム。それを越える新マスク。つまり、仮面社会にならざるえないのかも知れない。外出するときには仮面をする。その方が安心かも知れない。政府に完全把握されないために。