絵を語る会について

   



 水彩人はその設立趣意書にあるように、水彩画を研究するための組織だ。水彩画を本格的に研究する場がどこにもないために、作ったものである。水彩画が自分の絵画表現に適していると思えるのだが、水彩画については、その材料の科学的な分析や、その表現の特徴をふくめ学べる場が今だない。

 水彩画の研究機関がない以上自分たちで作ろうという組織が水彩人だと考えている。絵の研究は一人では出来ない。だからみんなで共同研究をしてみようという、変わった会の出発の趣旨なのだ。私の場合は学生の頃から絵は共同で研究すべき物だと考えて、絵を描いてきたので強くその点を意識した。

 外に向うより、内に向うという意味で、一般の公募団体とはそもそもの目的が違う。世間にどう見られるか。と言う前にやることがあるのが水彩人なのだ。絵の研究は個人的に自分でやるものだという考えもある。むしろ日本ではそういう職人気質の絵を描く人が多い。しかし、水彩人は絵の研究を共同で行うための組織なのだ。この点は常に意識しなければならない。

 水彩人展では「絵を語る会」を続けている。水彩人が水彩画の研究のための組織だと考えているからだ。水彩人展は水彩画の研究の為にある組織である。コロナで開催されていなかったが、以前から絵を語る会を年4回の開催をしてきた。

 再開したいと考えている。絵を語るとは自分の絵のことをみんなの前で語るという事。そんなことは何にもならないと考える人も当然いる。たぶんそういう人が普通だろう。絵を描く人はほとんどが自分の殻の中に籠り、自分流が一番と生きてきた人が多いからだ。しかし、絵を描くものは殻にこもる職人になっては成らないと考えている。

 外に心を開き、自己否定をして、自分が変わって行くこと以外に絵の進展はないと考える。変わることをおそれない制作者にならなくては成らない。良い画家は死ぬまで絵が良くなっていって終わっている。日本の大半の絵描きは若い頃に獲得した絵を模写している人が大半である。意識しなければ普通の人間はそうなるに決まっている。

 自分の描いた絵を、信頼できる絵の仲間の前で言語化する。言葉で分析して表現することで、何かが自覚できるという趣旨である。絵を言語化することを否定する人がいる。いかにも立派な職人魂であるが、そんなことは芸術家の道ではない。単に語彙に乏しいだけのことだ。究極まで進んだと思う先にこそ道はある。

 絵を描くことに置いて、これで良しなどと言う事はどこにもない。いつも自己否定しながらしか進めない。そのための絵の言語化である。言葉にしてみることで、自分の今やっていることが整理される。整理され自覚が促される。もちろん言葉ではこぼれ落ちる。言葉は絵の断片しか拾うことは出来ない。

 しかし、断片とは言え言葉化することで絵の実相の幾分かは見えるのかも知れない。そこから自分の描いている絵を解きほぐすことが出来るかも知れない。自分の絵を、これで良しと考えている人は絵を語る必要などないのだろう。勝手に酔いしれていれば良いだけのことだ。

 絵を持ち寄り、額装して展示して、絵の前で自分の絵を語る。そんなことに意味があるのかどうか疑問はあるだろうが、絵を学ぶという事は他には方法がない。窮余の策のようなものだが、結果として、私自身には一定の結果が出ている。絵を語る会に参加している人の絵は、理由は分からないが成長しているように見える。

 だからといって絵を語ると言うことは自覚の問題であって、絵を教えて貰おうという場ではない。自分の絵の問題点を誰か先を行く人から教わろうと思うのはとんでもない。絵は教えてもらうような物ではない。自ら発見する以外に方法はない。教わって見栄えが良くなることなど、その先にある自分の絵画にとって、却ってまずいことなのだ。

 絵には手っ取り早い方法はない。その人自身の絵画が成長し自覚する以外絵になる物はなにもない。絵を語る会では人の絵の批評はできるだけ控える。批評は必要なものではあるが、絵の指導になりかねない危険がある。絵を語ることでの自覚の会であることを肝に銘じなければならない。

 ところで私は今何を語れるのだろうか。再開1回目は水彩人展の会場でやろうと考えている。まだどの絵を出すかは分からない。今の描いている状況を語るほかないのだろう。のぼたん農園で毎日何を描いているのか。そこでの成長はあるのか。

 あるいは衰退しているのか。行としての制作。もちろん行と行っても苦行ではない。楽行の制作。楽観を探している。随分遠回りしていることだが、その遠回りの制作がどこに向かって船出しているのかを語りたい。自分でも不思議な事なのだが、何故のぼたん農園で富士山が出てくるのか。

 いつも同じことなのだが、どこから来て、どこに行くのか。記憶をたぐる制作はどのような意味があるのか。制作中の心の状態を語ってみたい。見ているものが記憶になり絵に現われてくる意味を考えてみたい。記憶を紡ぐために水彩画が良い素材だと言うこと。

 水彩画表現を自由に行うためには技術が必要と言うことを痛感している。紙のこと、絵の具のこと、筆のこと、水のこと。水彩画の表現の幅をどれだけ大きく構
えることが出来るかが、水彩画で絵画制作を行う条件ではないかと思う。

 ここで言う絵画制作とは行としての絵画制作であるが。行の状態の確認としての作品。日々の一枚。しっかりと生きるための制作。人間の成長状態が、作品に現われてきていれば、それが本当の意味での、制作なのだと思う。作品を見て、本物の行であるかが分かれば良いのかも知れない。

 北斎は100歳まで一日一枚の制作を続けると歩んだ。だからといって、若い頃のほどの制作は出来ていない。技術的に絵を考えていたからかも知れない。上手くなって行けば、画竜は天に昇ると思ったのだろうが、どこまで行っても絵は絵としての意味以外にはない。

 問題はその描く人間にある。水彩の技術はなければならないが、絵に置いては画法は消えて行かなければならない。中川一政だって、下手くそだ。下手くそなのに、誰にも到達できないほどのうまさがある。マチスだって、ゴッホだって同じだ。

 うまさが見えないほどのうまさに至らなければ絵にはならない。結局は努力の方向なのだろう。技術を学ぶと言うことでは、どんどん絵が痩せて行く。上手ですねほど、だめだを示した言葉はない。誰が見ても下手だ。しかし何か良い。こうなるはずだ。

 誰もが出せる色で。誰もが使える筆跡で。誰でも描ける画法で。その人が描いている事が分かる。その辺が目標なのかも知れない。

 - 水彩画