一日中アトリエカーの中にいる。

   



ピンボケになった。

苗代田んぼと、月の溜め池が満水になる。全体で2畝弱ぐらいである。

 1月10日1番田んぼに水を入れて、水牛によるコロバシャを行った。朝、田んぼに着いたならば、なんと田んぼに水があった。苗床田んぼも、溜め池も満杯になり、水があふれ出ていた。昨夜強い雨があったらしい。急遽干川さんや、崎枝の仲間に呼びかけてコロバシャを行い、ついに1番田んぼに水が溜まった。

 この冒険の最初の難所を乗り越えた感じだ。水の心配はこれでほぼなくなった。雨さえあれば、充分に溜め池に水は溜まる。今年の小雨の中出来たのだ。溜まった水で10枚の棚田で耕作が出来る可能性が見えてきた。最初に立てた計画は間違っていなかったようだ。出来るという人は少ない冒険だったが、長年田んぼをやってきた経験は役に立った。

 絵を描くという、さらなる大冒険の方も日々前進しているつもりだ。こちらの冒険の方は経験がない、未知への挑戦である。行く先も霞んでいる。このやり方で結論まで行けると思っているのだが、取り返しのつかない死ぬまでの冒険の中にいる。

 崎枝にのぼたん農園を作り始めてからは、一日中アトリエカーの中にいる。誰か人が来たら、一緒に働くが、人が来ないときにはほとんど絵を描いている。昨日のように1万5千歩も農作業をした日でも絵を描いた。農園作りばかりしていると言うよりは、以前よりかえって絵を描く時間が長くなったかもしれない。

 体力的にはギリギリの所かもしれない。体力の方は絞り出すというギリギリのところで頑張っているのが分かる。余力はあまりない。休み休みであるが、何とかのぼたん農園の完成まで頑張れる体力を温存しながらである。途中で折れるわけにはいかない。

 不思議なようなものだが、一日一枚以上の絵を描いている。崎枝は昼に家に戻ってご飯を食べてまた午後に行くと言うには少し遠い。14キロある。最初はファミマで弁当とコーヒーを買って出掛けていたのだが、今は弁当を作って貰って出掛けている。アトリエカーでゆっくりご飯を食べるのも習慣化してきた。結構これが具合が良い。ファミマの弁当よりやはり良い。

 弁当を食べながら絵を描いていたりする。絵を描く姿勢のまま、弁当を食べているから、つい絵を描き始めて弁当を忘れていることもある。目の前に絵があるから、食べるも描くも一緒になってしまう。アトリエカーはまさに石垣水彩画生活の必需品である。

 車の止めてある場所は実に広々としていて、四方八方が素晴らしい風景である。この広大な空間が良い。絵を描きながらこの空間を眺めている。山際や草原、海と島と水平線、そして空。土の赤色枯れ草の白。水に映る雲の姿。自然がある。

 今見ているものを描いているわけではないが、見ている空間が絵に影響を与えていることは確かだ。絵にすべきものが何であるかが見えてくるようである。それが出来ているとは言えないが、前に進むべき方角が周りの景色に示されているような気がしている。

 日々の一枚がどこまで継続できるかである。わずかな発見でも良いから、一日新鮮な気持ちで絵を描く時間を持ちたい。案外、代掻きをしていドロドロで、へろへろになっていても、アトリエカーの中に入れば、絵を描くことは可能である。

 30分の休憩時間に絵が描けることもある。むしろその方が余計なことが出てこないで良いようである。絵を描くときは田んぼをやるように。田んぼをやるときには絵を描くように。まさに目指していた言葉が実現した生活である。この先どれだけ続けられるかが問題になる。

 のぼたん農園を美しい農園にしたい。楽観に満ちた農園にしたい。自給生活が可能であることを、実際にある形として実現したい。絵はその楽観が表われてくるようなものでありたい。言葉にしてみれば出来そうな気になるが、これが果てしなく遠い。

 日々の一枚である。やり尽くすまでである。

 

 

 - 水彩画