水彩画は油彩画と水墨画の中間にある。

   




  40号の絵を今描いている。水彩人展に出品するつもりの1点である。車の中で描ける最大のサイズが50号ぐらいである。車の中では離れて見れないと言うことで、難しいのだが、実際の描く作業は車アトリエで、絵を長時間眺めているのは家のアトリエである。この眺めては居るだけの状態が必要と考えている。

 水彩画にはいくつかの特徴がある。一番はマチュエールがないと言うことではないかと考えている。油彩画から水彩画に変わったときマチュエールがないことでの違和感があった。ただ、色彩が日本の自然には合っているので、水彩画に変わっていった。

 マチュエールがないと言うことから、筆跡を重視するようになった。強い筆触でマチュエールに変わるものを求めたのだと思う。風景には強くしたいところがある。強く見えるところと行っても良い。強いところを起点として動きが起きている。それをマチュエーで対応するのが油彩画であり、筆触で対応するのが水彩画ではないか。

 その後何点かは油彩画も描いたが、それは人物か静物である。リンゴの光の当たっているところに厚塗りの反射を入れる人が良く居る。光を意識するためのマチュエールである。こう言う質感は油彩画の特徴なのだと思う。

 水彩絵の具には絵の具の物質感で存在感を示すような油彩画特有の表現はない。油彩画実在的な感触から見ると、いくらか映像的表現と言うことになる。水彩画は塗られてしまえば色の付いた紙になってしまう。染色であれば、染められた布になる。基材そのものが色になる感覚が水彩画にはある。

 この紙に置き換えられるということは、事物を観念化するような側面があり気に入っている。極端に言えば、風景を文章で表現しようとするなら、詩の表現であろう。「荒海や佐渡に横とう天の川」風景の観念化である。水彩画の方が油彩画よりこの感触が強いと言うことだ。水墨画であれば、さらに観念化が起こっている。

 リンゴを油彩画と水彩画で写実的に描いたとして、だまし絵的なリアルさは油彩画の分野である。水彩画の細密表現は標本画的な正確さを信条とするのだろう。ボタニカルアートとしての必要十分なものが、水彩画にはある。油彩画のリアルさは実在感を伴っている「ある」という説得力がある。

 もう一つの水彩画の特徴は透明性とにじみの表現である。油彩画では水彩ほどの微妙なにじみは不可能だろう。透明色の表現も油彩画よりかなり奥深い。それは水墨の世界に近い。紙に委ねるという意識である。

 人為的な行為を極力消し去る。描いては居るのだが、人間の意識としての行為を超えた、精神世界の境地のような世界に埋没して描くような意味だ。自分の意志が描いたことを消し去るような、自然さを求める水彩画である。

 水彩画では水に委ねるという人が居る。自分が描いたのでは無く、水が描いたのだという。自分はその水の意志に従ったのだというのだ。水の浸みて広がって行くにじみは人為を超えている。そこに自分の心情を反映させてゆく。それは服取り消しながら描くと言うことも似ている。

 この点水彩画は油彩画の持つ意識的な創作性が弱いとも言える。それは水墨画よりは意志的なものを表現することが可能とも言える。色彩を伴うと言うことで、水墨画の幽玄性のようなものから、意識的な表現も可能になる。

 その意味では水彩画は中国画が一番近い気がする。中国画は水墨画に着色をしたようなものである。日本画とも違う。日本画は中国画から学んだものではあるが、独特の装飾絵画に変化した。日本画は芸術と言うより美術作品という方が相応しいものだ。 

 しかし、一方で水墨画では精神世界の表現が求められる。書画一体と言うようなことが言われる。水墨画では完成に向けて、一方向に絵を進めるのが普通であるが、水彩画では試行錯誤の痕跡も表現として存在する。人間が生きていると言うことは正しいばかりではなく、間違うことや淀むこともある。だから絵には試行錯誤があって良い。
 これが水墨画と水彩画の違いではないだろうか。ここに上げさせて貰ったものは出光美術館にある仙崖の作品である。禅画と言われるものだ。不立文字というような形で、境地を示しているものだ。江戸時代にはこうしたもを見て通ずあう人間がいたのだ。

 江戸時代は現代の細密描写を喜ぶような文化の衰えた時代とは違うのだ。

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