石垣島崎枝の新しい景色を描いている。
以前はこちらの方角は木で覆われていて見えなかった。牧場の木を切らしていただいたら、よく見えるようになった。とても面白い場所である。木の密集する場所には、小さな谷間があり、林がある。水が湧いていて、田んぼにつながっているのではないだろうか。
右側には田んぼが広がっている。田んぼと上の台地との間は10メートル近い崖である。奥の台地の上にある屋根は牛舎の屋根である。この左側の一段高いところが崎枝の集落である。
集落は尾根筋に続いていて、とても美しい集落である。日本一美しい村だろう。その尾根筋は屋良部半島の付け根の尾根なので、両側の下が海である。名蔵湾と崎枝湾とに挟まれている。海の色が時間によって変化して行く。
歌人の俵まちさんはこの集落に住んでいたと言うから、この美しい村を歌に詠んだのだろうか。俵さんの本は石垣に来る前に大体は読んでいる。しかし、短歌の方は読んでいないので分からないが、サラダ記念日の印象からすると、石垣の自然は俵さんの対象ではないような、気もする。
「崎枝の南丘陵」ーー1 中盤全紙 クラシコファブリアーノ
ここまでが5月6日描いたものだ。今回は描き出しは写真を撮り忘れたので、どのようにここまで描いたのかは分からないが、たぶん色彩から入っているような気がする。
丘の上を描いてはいるが、実は右側の田んぼに意識は行っている。この田んぼを描くには丘の側も描く必要がある。2つの谷筋から水が湧いている。こんな情景が日本に残っていることが不思議な気がする。これはとても古い時代の田んぼの姿である。
今は上の丘に暮らしているが、古くはこの水の湧いている当たりに人は住んでいた可能性が高い。田んぼが、4ヘクタールぐらいある。40家族ぐらいの集落があったのであろうか。
5月9日に描いて一応完成した。この絵には自分なりの納得するところが有ると思っている。この場所がいいのだ。写真で分かるように実際の景色は向こう側は山がある。それを海にしている。海はもう少し左側にあるのだが、海にしている。
海の水は触ればしょっぱいし濡れる。牧草の緑はつゆを含んでいて光を含んでいるが、大いに湿気ている。田んぼには強い光が当たり、立ち上る気流がある。木々の緑には熱帯の植物の勢いが満ちている。
ここににとの暮らしがある。人間が生きると言うことが、景色になっている。茅葺きの小さな家に暮らしていたのではないだろうか。
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「崎枝の南丘陵」ーー2 中盤全紙 クラシコファブリアーノ
この絵も5月9日に一応終わりまで描いた。筆跡で描いている。筆触で描いている。色で反応が出来ている。やっと石垣の緑に反応ができはじめた。
手前は枯れた草地なのだが、オレンジ色の花が一面に咲き始めている。何という花かは分からないが、妙な雰囲気の花だ。牛は食べない草だから花が咲くのだろう。
ここからである。最近になって石垣の絵が始まった気がする。ここから石垣の水土を描いて行きたい。ダビンチが解剖をして生命を探求した。そこまでして人間を描こうとしたように。石垣島の自然と人間の暮らしが現われている風景を描きたいとすれば、石垣の水土を知らなければ描けないはずだ。
それはたまたま石垣島にはまだそうした日本の古来より続いてきた、水土の風景が残っていたと言うことだ。私の子供の頃には日本の至る所にあった風景である。人間が風景の中で暮らしていた時代があったのだ。
自然と折り合いを付けて、自然に溶け込む暮らしを営んでいた。その暮らしのことを忘れたくない。循環して行く暮らしのこと。それは日本のどこでも失われている。たまたま、石垣島に残っていたのだ。先日与那国島に行ったのだが、与那国島では残念ながら失われていた。循環が滞ると風景に違和感が生まれる。
石垣島でも風景としてはまだいくらか自然と折り合いを付ける暮らしが残っているが、実際の暮らしは違ってきているのだと思う。耕しているのは水牛ではなく、大きなトラックターである。それでも今描き残しておくことは出来る。
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「崎枝の南丘陵」ーー3 中盤全紙 クラシコファブリアーノ
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この絵はもう少し描くつもりだ。ほぼ終わっているのだが、もう少し描きたい。どこを描きたいのかはまだ分からない。分かったら続きを崎枝の現場で描き継ぎたい。水彩の面白いことは、新鮮な気持ちで描き足すところにもある。
崎枝の新しい場所での景色だ。一歩前進させてくれた場所だ。この絵が同じ場所で3枚目になる。正面に田んぼを描かないで、かえって田んぼのことが見えてきた。
同じ場所を繰返し描くことで、だんだんその場所のことが見えてくる。構造が理解できてくるのだと思う。その結果だんだん自分の眼が見た絵になってくるようだ。この段階に私絵画があるらしい。
この段階とは自分の絵を描く繰返しで何を見ているのかにある。だんだんわかってくると書いたが、何が分かってくるのかが、重要と言うことになる。この絵では海を狭くして、牧草地を広くとった。意識的ではないが、そうしたくなった。
まだ自分の絵を描く過程のことはよく分かったわけではないが。同じ場所を何度でも描きたくなる理由は少し分かった。飽きるわけがなかったのだ。今回はたまたま、そこにあった木を切り払ったために、新しい景色が表われることになった。そして連続した3枚の絵を描くことになった。それで少し自分のやり方が自覚できたかもしれない。