石垣島が絵を描く終の棲家である。
石垣島に戻り気持が落ち着く。石垣島には静かな暮らしがある。終の棲家というが、まさにその通りである。絵を描きに出かけても、暮らしの場所を描いている。いつもの場所をいつものように描き始めた。
田んぼには2期作目のイネが実っている。やっと色づき始めたところである。一期メノイネに比べるとずいぶん分げつもすくないし、穂も小さい。まだ、30度近くになるから、この先実るとは思うが、やはり時期を外しているのだろう。十分な稲作には見えない。
何故ベラスケスの白い筆使いが、レースに見えるのかといえば、人間の眼は大抵のものを想像で見ているからだ。天井のシミを見ても、妖怪の顔に見てしまうものだ。人間が見るということは、こうした想像がかなりの部分を占めている。想像の部分と言うものはその人の解釈ということになる。
その人の解釈の積み重さねが絵になる。だから、白の適格な筆使いがレースに見えてしまう。この心理的な視覚を、利用することで説明をしないでも、離れて見ると風景になるという絵が描けるのだ。
的確な所に的確な調子で筆触は置かれなければならない。絵ではこれをバルールと呼ぶ。絵に置いておかれるところに置かれるべきものが置かれたのであれば、白い絵の具の線もレースになってしまう。
だから絵ではバルールが重要と言われることになる。この場ルールを的確におけることが、絵画におけるデッサンの本当の意味である。デッサンをものの形をとる技術だとするという考え方は半分のことなのだ。残りの重要な半分がバルールを捉えるということになる。
遠くにある樹木を緑の筆触で置く。近くにある草を緑の筆触で置く。この違いを絵の具の濃度や緑の違いで、的確に置く事ができるということがバルールである。どちらも一筆の点であるのだが、的確であれば、樹木になり、草になる。
このことを探っている。それを風景のベラスケスといっているわけだ。こういうことだと私の絵を見て貰えばいい。と言いたいところだが、まだできていない。水彩画ではこのことができる可能性がある。
優れた水墨画はそういうことをモノトーンで実現している。しかし、色彩の持つ豊かさがない。よく、墨色は色彩を表現するなどと、ありもしないことをいう人が居る。つまり、置かれたところに置かれた墨は人間の想像力で色彩まで想像させるという意味なのだろう。
しかし、これは色彩の持つ哲学を表現することを、怠っている。色彩には世界観のかなりの部分を占めた哲学がある。それはマチスやボナールを見れば分かる。素描では絶対に表現できない、西洋的世界観がある。それは当たり前のことだが、世界は色彩に満ちているからである。
色彩をなくすことで世界の一部を深く置き換えることは可能だと思うが、やはりそのやり方は一部の世界の抽出ということになる。西洋絵画の総合性には、どうしても色彩が必要である。
水彩画は西洋絵画である。墨彩画では無い。中国画では無い。墨絵に彩色したようなものでは無い。初めから色の組み合わせで世界が構成されている。墨彩画は観念の中にある世界を塗り絵的に表現している。
ぼたんの花はこのようなものであると言う観念上のぼたんの花を描く。写生をしていたとしてもそれはあくまで観念のボタンの花を描く目的のためである。現実世界の表現では無く、観念上の世界観を表現するためのものだ。
水彩画が西洋絵画であると言うことは、現実の世界を表すものだからだ。たとえ心象的なものであったり、抽象的表現であるとしてもそれは現実的なものだ。それが西洋絵画というものである。
もう一つの言い方でいえば、東洋の美人画というものが美人という観念を描くのであり、人間存在に迫ろうという、西洋絵画の人物画とは違うということである。私の描きたい風景は観念にある風景では無く、私が見ている世界だということである。
私が見ている世界。感じている世界。これを画面に現したいと言うことが第一目的である。頭の中にある理想の風景を表そうというのでは無いということだ。
そのためには見ているということがなによりも重要視される。この見ている世界のすごさや深さを画面に置きかえることができるかどうかなのだ。岡本太郎は世界の真実が見えたならば、指させばそれで芸術は完結すると言った。
確かにそうだと思う。真実は目の前の世界のことだ。改めて、画面に置こうということは蛇足のようなものだ。しかしこの蛇足のような行為こそ、禅だと思っている。私が生きると言うことだと思う。宇宙からしてみれば、生きると言うことは、蛇足のようなものなのだ。
的確なところに的確な色と調子を伴った線を置くことができるか。このことだけなのだ。ところがこのことが技術的に難しい。色や調子が入り交じり、よほど熟達しない限り、不可能なことのようだ。
やるべき事は見えてきたが、やれては居ない。ともかくこの一事である。見えているように筆が置けるか。この一事にかけてみたい。10年はかかるだろう。それだけ絵が描ける時間が残されているのかはわから無いが、やれるだけはやりたい。
幸い、石垣島という場を見つけることができた。田中一村のような、風俗画としての南国風景を見つけたというわけでは無い。風景の説名画を描こうというのでは無い。今私が見ている世界を見ているように描くだけである。特別の場所では無い。私が居る場所である。