ユ―トピアが終わる時「学園・花の村」の終焉
学園花の村は掛川にあった市民による農業組織である。出来てすぐのころに2度お尋ねした。農の会の参考になる所があるかもしれないと考えて伺った。20年間の活動であったと「はなの村だより」にある。八王子にお住いの伊藤公博氏から、学園花の村の様子はたよりで少し見えていた。たよりには池守さんとか、藤本さんとか、思い出せるお名前の記事がいつもあって、どうされているかと思っていた。頼りに学園花の村の終わりが書かれていた。寂しいたよりであった。ユートピア村は世代交代とともに終わりが来ることが多い。終わりがきて仕方がないことなのだろうが、感慨深いものがある。時代の変わり目である。理想主義が拝金主義に敗れたわけではない。ここで蒔かれた種は、どこかで又芽吹くはずだ。すくなくともわたしは、学園花の村の活動を忘れることはない。20年近く前に学園花の村構想で学んだものは、2つある。一つは協働の形である。もう一つがカリスマの存在である。終わる組織に対して少し失礼な書き方になるが、農の会がそうならない様にしようと考えたところである。
学園花の村には、宮城さんという巨人が居られた。花の村はこの方の報徳思想で作られた組織であると言っても良かったのだろう。宮城さんは小田原の報徳会館で講演もされたことがある。思想家と言えるだろう。そして、「小さな農業」を提唱された津野幸人氏が顧問の立場でおられた。しかし、そうした中心となる人物が偉い人であればあるほど、その方が活動できなくなった時に危機が来るのではないか。偉い人がいるのはなかなか大変だと。幸いというか、私は偉くないし、人望もない。ないどころか反感を買いやすい。しかも特段の思想もない。ごく当たり前のつなぎ役で、組織の在り方を模索した方がいいのだという事を学んだ。そのおかげで、農の会では多様な人が登場する。たぶん、花の村では、偉い人の影響か、次の世代が育たなかったのではないか。一言で言えば、女性が半分の組織にならなければ、この先上手く行くわけがないと思った。農の会では男女差はない。最近は女性の新規就農者の方が多いい位である。と言って、どちらかと言えば農の会と適当な距離を置きたいという気持ちの人が多いいので、学園花の村の様なひと塊ではない。ゆるゆるの境目のない組織である。
花の村には併設する鞍馬の里というものがある。ここにはコテージのような住宅がある。農地に置くことのできる住宅を提唱されたのだ。鞍馬の里の家を参考に私も最小限の家を建ててみた。ここでは築基準法をすり抜けるのではなく、正面から行政の正式な許可を得た、農業用倉庫を作ってみた。鞍馬の里の実践を受け継いだ形である。今は上野さんや杉山さんが利用してくれている。20年前の新規就農の一番の課題は住宅問題であった。今は空き家が増えた。住宅を用意している自治体もある。しかし、農地法と市民農業の現状が遊離していることに変わりはない。国に食糧自給を本気で考える気があるなら、市民が農業にどのようにかかわるべきかを考えなければならない。農地の所有から、利用への転換である。そうしなければ、新規就農者が新たに登場してくることは限定的になる。都市近郊の農地を農地法から切り離し、新しい枠組みに入れる必要がある。人口減少期に入り、土地が投機的に扱われることも今後はなくなる。学園花の村は、掛川市という農業地域での農地利用という事で障害が大きかったのかもしれない。
時代は困難さを増してゆくだろう。競争に勝つ人と、競争から降りる人との間に溝が出来るだろう。引きこもり問題が注目されているが、競争主義を降りた人の行き場がないのだ。拝金主義を嫌う人には困った時代になる。競争から降りて、自分らしい生き方を見つけてゆくほかない。一人で探ってゆくのも良い。しかし、孤立することは危険である。緩やかな連携をとりながら、新しい価値観を探ぐることも一つの道ではないか。農業の実践はその大きな道しるべになる。学園花の村が模索した道は正しい道であったと思う。しかし、競争社会の中では仕組みとして存続するには困難があった。競争社会の中でも勝ち抜けるような能力の人がいたから、こんな時代の中で存在しえたのであろう。二宮尊徳が江戸時代に存在したのと同じである。尊徳は封建主義時代に、資本主義を持ち込んだ人だ。再評価もいいのだが、地場・旬・自給には銅像になるような人はいらないのだと思う。普通に生きる人の新しい連携できるそしきの摸索ではないだろうか。