憲法と自衛隊

   

憲法記念日には憲法に関する様々な意見が見られた。様々な意見の中でもやはり、アベ政権の主張する自民党憲法のことではなかろうか。安倍氏は自衛隊違憲論争に終止符を打ちたいと叫んでいた。自衛隊が専守防衛を捨てれば、違憲状態になる。これが憲法による権力に対する歯止めだ。現政権が今の憲法を大きく変更するべきものと言う意識でいるという問題である。これは立憲主義国家としては、重大な事態と考えなければならない。この変えなければならないという空隙を、解釈の拡大という無理で埋めているのが今の自民党政権という事になる。この状態はどういう立場に立とうとも異常であろう。憲法に関して議論すべきはまさにこの所である。具体的に言えば、自衛隊を明記すべきかどうかが第一義である。アベ政権は自衛隊が明記されていないから、隊員が誇りが持てないと主張している。全く筋違いの憲法論議の立て方である。憲法を問題にするなら、日本をどんな国にするのかという事が、議論の根本になければならない。小手先で、隊員の誇り云々、自衛隊員の子供がかわいそうだという事を総理大臣が言うようでは、憲法論議が幼稚なものになりかねない。総理大臣として憲法が変えたいのであれば、正々堂々と憲法を話さなければならない。
自衛官も、消防士も、警察官もあくまで公務員という範囲である。自衛官だけ何故特別に別枠を作らなければならないか。その理由と言えば、軍隊は国民に対して圧倒的な武力を持つ特別な存在だということになる。その背景には、自衛官だけが特別な差別的な扱いを受けているという、妙な劣等意識が裏返しにある。戦前の軍隊が、何度もクーデターを行った前例を考えてみる必要がある。本来憲法に特別に自衛隊を明記したからと言って、自衛隊というものの持つ武力に対する恐れのようなものは変わるものではない。武力は外国の勢力に対する防衛的なものであると同時に、国民の反乱に対する抑止力でもある。自衛隊がクーデターを起こす可能性が一番高いのだろう。オウム真理教もクーデターを考えたのであろうが、一般国民がどれだけ、武力を蓄えたとしてもオウムの範囲が限界であろう。しかし、自衛隊という武力集団が時の政府に対して、クーデターを企てることが一番恐れなければならない。
それは自衛隊を無くそうという政権が出来た時には、いつでも起こりうることである。憲法が平和主義を基本としている以上、自衛隊はあくまで日本の国家の大枠から言えば、補助的な存在であるとしておくべきものと考える。もちろん、この補助的であるという事が良いのかどうかは、議論をしなければならないところである。それは専守防衛と憲法の関係の議論である。しかし、現状の憲法ではそうなっているという事は国民全体で確認しておく必要がある。現状の憲法に自衛隊だけを特別に書き加えるという手法は、憲法の前文にある精神と大きく矛盾をしたものになるであろう。武力を持つとしても攻撃的武力は持たないと明記されている憲法である。軍事力によって国際紛争を解決しないとしている憲法なのだ。そのことは平和的手段で、国際紛争の解決に当たれと、権力に対して命じていることになる。この点では明らかに日本政府は努力不足であろう。竹島でも、尖閣諸島でも、解決しようとしない。自衛隊の必要性を強調するために、あえて問題化したまま残してあると言えるのが現状であろう。
自衛隊と憲法の問題では専守防衛の議論が不可欠になる。専守防衛が可能なのかどうかさえ、議論がされていない。軍事力は急速のAI化して戦争の様相を変えている。生物化学兵器や宇宙兵器の登場。そして、コンピューター網の破壊工作。そして、ビックデーターの漏えい。情報戦は常に起きているのだろう。世界は70年も前の防衛論議とか、地勢的防衛議論ではもうどうにもならない状況になっている。しかも同盟国アメリカが変貌を始めている。経済の国際化も著しいものがある。経済封鎖というものが、戦争の始まりである。同盟国であろうとも、アメリカは日本にも経済戦争を仕掛けてきている。こんな世界情勢をどう乗り越えるかが、憲法と大きくかかわってくる。中国はアメリカも恐れるような大国になり始めている。日本の保守層は中国は崩壊するというような、幼稚な幻想を持っている。中国での経験を踏まえたうえでその見方は間違っていると確信する。養鶏でも近いうちに日本の偽善的自然養鶏が後れを取るのは眼に見えている。たぶんすべての分野で日本は守りに入っているのだ。憲法は大いに議論しなければならない。

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