絵を語る会

   

絵を語る会を行った。場所は神田のアポロ画廊である。いつものように一日展覧会のような形で開催した。それぞれの絵が一番よく見えるように、きちっと並べる。昔むかし金沢に大先生がいて、指導日には床に絵を置かせて、足であれこれ指導したそうだが、こんなやり方では大先生と言えども絵のことは分からないと思う。良い環境でじっくりと見なければ絵の本当のことはわからないものだ。きちっと額装もした方がいい。できるだけ見やすい条件でみる。照明も大切なことになる。光の様子で絵は違って見えることもある。だから会議室のようなところで絵を見るのでは、間違う事もある。ある水準の照明が出来ないような会場では、絵が可愛そうすぎて、絵を語る会は難しいと思っている。わがままなようなことだが出来る限りのことをしなければ、命がけで描いている絵に失礼なことだと思っている。そういう覚悟で絵には向かい合うつもりでいる。そこで、アポロ画廊をお借りするのだが、一日だけ使わせてもらえるという画廊は少ない。
12名の参加で行った。このくらいの人数だとうまく回る。ゆっくり話せるし、お互いのことがだんだん理解できてくるので、信頼した関係で話すことが出来る。その内言葉が通づるようになる。言葉というものは単語として同じでも、人によって意味が違うものだ。絵を語るということはそう簡単なことではない。10時から絵を飾り付けて、午前中はゆっくり互いの絵を見せてもらう。この絵を見ているだけの時間が大切な時間だと思っている。昼食を食べてから、いよいよ絵を語る会を始める。絵は時間をかけてみないと良く分からない。第一印象だけで判断してしまうと、間違ってしまう事がある。最低でも1,2時間は眺めてから、その絵のことを考える必要がある。迂闊に即断すると大変な間違いをしてしまう事がある。公募展の審査は短時間で行うから、ぱっと見の良い絵が見栄えがすることになりがちだろう。見栄えのしない地味なものの中に本当のものがあるのかもしれない。絵を語る会は絵の価値を判断しようというのではない。誰の絵が一番だなどという事は全くない。一人一人が自分の絵を考える機会になればという事だけである。絵は一人で描く。自分の中に沈潜し苦しみがちである。その自分の内部的なものを、表にできるだけ出してみる。言葉化してみる。言葉も嘘であろう。絵も嘘であろう。全部が本当のことになるなどという事はまずないのだろう。しかし、黙っていては始まらない。という人で集まっている。
今回、石垣で描いていた最後の絵を持っていった。どの絵を持って行こうかかなり迷ったのだが、分からなくなったので最後の絵にした。石垣での制作のことをいろいろ話させてもらった。話してみて石垣で何をやっているかは自分なりに、判断できた。自分の絵がどんな状態なのか、客観的に見ることが出来ればと思っていた。確かに石垣で一人で見ていた時とは違う。自分の絵がどんな状態なのか少しわかった。ホッとしたが、大変だなと思った。人の絵と並べるとそれだけでわかることがある。まだまだ道は遠いいことだという事が分かった。自分が描きたい絵は到底実現できていない。ただ、方向は大きく間違っているわけではない気もした。このことが確認できたことは有難いことだ。見るという事をもっと突き詰めなければならない。絵画をする目で意識して見るという事と、目に映るという事はだいぶ違う。違う事までは分かるが、絵画として見るという見方の突き詰め方がだいぶ甘い。絵の描きだしばかり楽しんでいる。楽しく描くという事は大切なことではある。描きだす嬉しさという言ことで精いっぱいで、絵の終わり方という事がまるで見えていない。感性という事でもいいのだが、絵に結論を出すという事を避けているようだ。
次回は7月ごろやろうと話し合った。年に3回か4回ぐらい開催したいと思っている。つまり、それくらいは東京に出てくるという事になる。この機会に画廊や美術館を見て歩かなければ。人の絵に触れることは必要だ。7月ごろには水彩人の全体会議がある。この時には東京にいなければならない。それに合わせて開催すれば、私としては都合がいいと考えている。2カ月半ぐらいはあるから、いいのではないか。その次の開催が、水彩人本展で行うから、10月という事になる。そのあと1月ぐらいにやるかどうかという事になる。石垣に行ってみて、絵を語る会の集まりがいよいよ大事なものになったと実感している。石垣では絵を見るという事がない。自分を見失う可能性がある。石垣のアトリエには、他の人の良い絵を飾らなければだめだ。今度石垣に行くときには小田原の家にある、他の人の絵を出来るだけ持って行くことにする。

 - 水彩画