色彩には世界の喜びが表れる

   

色彩には喜びがある。色彩は私の絵には不可欠である。色に反応して描きたいと思う。良い色を描き、画面に留める嬉しさがある。美しい色の絵が出来た時にはもうそれだけでいいような気分になる。現実の世界は色彩で満ちている。あふれかえる色彩に反応できる自分がうれしい。絵を描きたいという気持ちのかなりの部分が、世界の色彩に反応したいという衝動ではないかと思う。色を画面の上に置いてみること自体が喜びである。現実世界にある色を自分のものにしたような気持になる。だから白い紙に色を置いてゆくことほど楽しいことはない。この楽しい感じのまま絵が出来ればいいのだがなかなか難しい。色彩の美しさというものはボナールから学んだものだ。自然から受けた美しいという印象がボナールの絵で具体的なものになった。絵を描く喜びのようなものを知った。ボナール展を見に行った。しかし、1968年とあるから、19歳の時だ。然しそれよりも前にも見ているはずだ。1960年ごろにサーカスの馬の顔の絵を見た気がする。19歳の時に見たものは2回目のボナール展だったはずだが。それよりも前に見たような気がする。ボナールを見てから絵を描くことがますます好きになった。好きな色を好きに塗ればそれだけで満足していた。ボナールが許されているのだから、何でもありだと思った。
ボナールの絵を見ていると、理屈がない。ただただ、色彩の美しさに感性で反応している。おかしなところばかりであるが、色彩の自由がある。おかしいからこそ、純粋な色の美しさに集約されてゆく。あらゆる制限からの自由な感じがなければ、純粋に色に反応してゆくことはできない。実に細部的だ。もうその一つのタッチが美しくなければ、耐えかねるというようにできている。問題はそうした細部の蓄積が、全体に及ぶ凄さである。大きな絵になるとそういうおかしさがいよいよ強くなる。20号くらいまでがボナールの絵がボナールになっているのではないか。しかし、現実に広がる世界はボナールの絵以上に美しい色彩である。自然というものの調和性は凄い。これを画面に持ってきたいという、絵を描きたい動機のようなものがある。ある評論家と自称する人から、お前の絵は色がきれいなだけだと言われたことがある。それで何が悪いのだろうかと不思議に思った。色彩以上の何があるのだろうかと今でも思っている。
マチスの絵とボナールの絵では色彩の美しさと言っても全く違う。マチスの絵には全体というもので示された色彩がある。色彩が関係である言う事が先にある。全体の調和的な世界がマチスの世界である。全体から細部の位置づけが決まる。ボナールとその点逆の発想と言ってもいい。画面全体で出来上がる色の調和世界がマチスの世界。調和が色が記号のように整理されていて、数学的な正しさのようなものが、成立している。マチスの目指すべき世界観が頭の中に理路整然と形成されている。それはかなり観念的ともいえる。自然への反応というより、色というものが記号に置き換えられて、記号の関係性で、色彩の世界観を形成しようとしているのではないか。
これは今ブログを書いている右側にある窓の外である。世界はなんと美しいことか。決して、マチスの絵やボナールの絵に劣るものではない。写真ではたぶんそのほとんどが消えているかと思う。私の目には緑の色の多様な変化と、手前の刈れている葉や蔓の関係が実に美しい。色彩にあふれていて、写真のような落ち着いたものには少しも見えない。見ている世界はの色の美しさは素晴らしい。これを素晴らしいと思うのは、私という人間である。自然は美しくあろうなどという事はない。ただ自然の摂理に従い、一つの調和をなしている。間違って出ている枝など一つもない。間違ってなびいている草の葉などない。これを画面に持ってきたい。それを何が邪魔するのだろうか。技術がないからだろうか。画面になると写真とは違った意味で、別のことになる。
ここを少しづつ描いている。絵になるとまた別である。描きだすのはいつものように愉快なのだが、画面が見ているものに近づいてこない。しばらくこの絵を描いてみようと思っている。

 - 水彩画