この先の自分へ
火星接近。赤く光る星が南の山の上に輝いていた。赤く怪しい色であった。珍しいものを見たという嬉しさは一瞬あったのだが、すぐに不吉な予感のように感じた。東京を離れたのは30年前昭和が終わる頃であった。山北に来ると南の海に赤く炎を上げる大島が見えた。自分の絵描きとしての見通しの立たないこととが、暗い夜に浮かぶ燃える島の記憶と重なる。そして何という事か小田原を離れる年に平成が終わる。70歳である。40歳からの30年間をあしがら平野で暮らしたという事になる。自給生活を探求した30年であった。私にとって自給生活は絵を描くためのものであった。ところが、この自給生活から子供のころからの鶏好きが甦った。養鶏にのめり込んだ。今は田んぼにはまっている。この先本当に石垣生活になるのか。ある程度は小田原に残るのか。正直先の先の事など何もわからない。ただ、精一杯身体を動かすことが出来なくなる前に、生前整理である。モノの片付けもある。しかし、関係の整理もしておかなければ整理にならない。
整理に終わりがあるという訳でもない。死というものは全てを断ち切るものであろう。これで安心などという事があろう訳がない。子供のころに死の恐怖にとらわれた時期があった。死というのは眠るようなものだ。という事をおじさんが言うので、もう眠るという事が怖くてできなくなってしまった。眠くて眠りたいのに怖いものだから、「眠って死んじゃうよ。眠ったら死んじゃうよ。」と泣きじゃくていた。そんな記憶がある。この死の恐怖は今もって解消できたわけではない。死の恐怖という事があったので、中学3年生の時に得度をしたのかもしれない。禅の修業をすれば、死など受け入れられる人間になれるのだろうと。禅によって死のことを理解したとは到底思えない。解脱とか、悟りとか、死のことを明らめ受け入れられるようにはなれなかった。修業もいくらかはしたわけだが、無心とか、空とか、そういう立派な世界から一番遠いいところにいる俗物の自分を確認しただけのようなものであった。
この間一番自分を支えていた考え方は、萩野浩基先生に世田谷学園で教えられたやり尽くす思想である。今をやり尽くす。そのことに十分であれば、先の不安というものもなくなる。死の不安を乗り越えるには今をやり尽くすこと。そう考えて精一杯であろうとやってきたような気がする。十分に生きていなければ、迫りくる死というものに安心が出来ない。父は私の死恐怖症をずーと覚えていて、死ぬ数年前から、死ぬことはさして怖いことではなくなるものだなぁー。と独り言のように何度もつぶやいた。頭がだんだんボケてきて、死でも受け入れられるようになるようだと言った。母も多分私を安心させようと、死ぬ半年前の大きな事故の後、死ぬことは何でもないという事が良く分かったと繰り返し話てくれた。あのまま死んでいたとしたら死ぬことなど通り過ぎるだけだと明言した。父と母の言葉だから少しは安心できたのだが、やはり簡単には死ねないものだ。
今私と同じ机に、2匹の猫がいる。17歳と数カ月である。この暑さにだいぶ弱っている。今までもたくさんの生きものと暮らしたのだが、彼らも死んでいったが、実にさっぱりしていて、見事なものであった。10数匹の同志になった犬たちは、もう死の寸前であっても、触ると尻尾を振って答えようとした。猫たちの死もいつも消え去るようにとても静かであった。私の今の作戦としては、長生きするという事だ。諦めがつくほど長生きをすることだ。病気にならないように最善を尽くす。そして100歳に位になって絵を描いて居れば、これで行き着けないのであれば、一応これでやり尽くしたことなのかと思えるかもしれない。