よみがえる沖縄展 1935
横浜にある日本新聞博物館というところで、1935年に大阪朝日新聞が撮影した沖縄の写真の展示が行われている。沖縄のことだと何でも気になるので、横浜まで見に行ってみた。1935年というと、昭和10年である。2,26の陸軍のクーデター事件の前年。日中戦争に突入する時代。新聞が大本営発表役をかって出ている時代のことだ。そうした時代背景の中で、国からの指示を受けて、大阪朝日新聞社は海洋国日本という特集を組んだと考えられる。そのことの確認をするためには、写真を見てみれば、沖縄をどのように写したかを見れば、何かがわかる。今回の展示を見ると、やっぱりと思われる引っかかる視点がある。沖縄では米軍の徹底した地上戦によって壊滅してしまい、写真もほとんど残っていない。その意味で貴重な写真が大阪朝日で発見されたという説明だけが書かれていた。私はそのような意味の興味はなかった。むしろ大阪朝日のカメラマンが、どのようなまなざしで沖縄を撮影しているかである。そしてその写真の撮影姿勢に対して、現在の朝日新聞がどのような、認識を示しているかである。
朝日新聞は珍しいものを発見できたということ以外、戦争責任に関しては何も認識を示していない。ここには気付きがない。新聞社の劣化である。朝日新聞はアベ権力に対してはいくらかの批判的姿勢はみせている。それも最近はスポンサーへの忖度ではないが、かなり疑わしいところはあるのだが。この写真の存在に対して報道機関としての戦争責任に対する反省の表明が全く欠落している。こうした戦時中の沖縄の写真を展示する以上。その時代背景と大阪朝日新聞が行った戦争加担の反省の謝罪が述べられて当然のことだ。その後日本軍が沖縄で行ったことを考える上でも重要なことになる。この写真が撮影された1935年から、現在までの83年間沖縄に起きている現実を、朝日新聞社として、報道というものの意味を把握することはできているのだろうか。これでは普天間基地の現実を理解できない事にならないか。大阪朝日新聞社が加害者の立場であった時代があるという認識にかけているのだ。特徴的なことは、模範村古謝の写真が細かく撮影されている点だ。毛沢東中国を思い出した。模範とされる村の姿は、まるで毛沢東世界。その後の紅衛兵を思い出してしまった。
写真は案外に怖いものだ。写真が写し出しているのは、むしろカメラマンの心だ。この撮影者の示す物珍し気な視線と、大日本国帝国の権力者の視線が見えてくる。その不愉快な目線を写真から感じてしまった。この写真をそう見てしまう私の感性がゆがんでいるのであればいいのだが。着物姿の人物が沢山写っていた。私の子供のころには、おばあさんなどは着物を着て普通に生活していた。写真の着物は縞柄が多かった。縦縞は男性もので、女性は絣模様だというように言われることがあるが、写真では縦縞柄の着物の女性が多く映っている。この着物は綿布なのだろうか。麻なのだろうか。芭蕉布や苧麻なども中にはあるのだろうか。写真ではそういう質感は見えない。帯の締め方が独特である。帯自体を使わず、何か金具で止めているのだろうと思われる着方も多数ある。こういうことは写真でしかわからない。沖縄の昔の家並も撮影されている。同じ場所の今の映像も展示されていた。それならば、一度戦争で焼け野原になった姿も展示してもいいだろう。かやぶき屋根が相当ある。また、穴を掘った中に家を作って暮らしているかのように、風をよけて暮らしていることがわかる。
この数年後この写真に写された沖縄は。すべてアメリカ軍によって焼き尽くされた。ここで撮影された人の4人に一人は殺されたのだ。そうした戦争の悲惨が分かるような展示に何故しないのか。それが出来ないのであれば、報道機関としての展示など行うべきではない。新聞博物館という機能は果たせていないのではなかろうか。この日も多くの若者がここに来て学んでいた。講義室のようなものも併設されていて、大学生と思われる人が授業を受けているようだった。この写真展を見て報道の意味を誤解して帰ることだろう。朝日新聞は一応左翼系新聞という事になっている。だからこそ、きちっとした批判精神を失った時により危険なのだ。戦時中行った戦争加担の報道の反省が生かされていない。形式だけの謝罪なら、失言を取り消す大臣と同じだ。どうせ、産経新聞が書いているのだから、という訳にはいかないのだ。自己批判の精神を失った報道ほど危険なものはない。他者を批判できる立場とは、自らに厳しい批判精神を持ちえた時のことだ。自らには甘いのであれば、その批判は力を持つことはできない。