モリのいる場所 熊谷守一氏の場所
熊谷守一という絵描きがいた。不思議な絵を描く人であった。この映画は題名通り、熊谷守一氏の立ち位置を探る、というものであった。私の子供のころまでの日本では、こうした不思議な絵に対して評価をする、文化的な余裕があった。当時は絵画の巨匠というものがいた。梅原龍三郎とか、安井曽太郎とか、坂本繁二郎とかいう人である。熊谷守一氏はその巨匠のひとりである。名声を求めず、ただ絵を描き続けた人。この人の娘さんが熊谷榧さんというひとで、彫刻や絵を描かれている。この人のことは少し知っている。きわめて頭の切れる人の印象である。以前から興味のあった熊谷守一氏のいる場所の映画という事で、何しろ封切り日に茅ヶ崎まで出かけた。「モリのいる場所」イオン映画館である。結構席が埋まっていたのには驚いた。土曜日の午後であるにもかかわらず、大半がというか、すべてが私の年齢と見受けられた。巨匠熊谷守一といっても、若い人が知っているわけもないか。この映画は熊谷氏の逸話を映画化したものといってよい。例えば、私が良く書く「上手いは絵の外、下手は絵の内。」などというのは熊谷氏の言葉だ。
昭和天皇が熊谷氏の絵を見て子供の絵だと思ったというのも映画冒頭に出てくる。逸話を紡ぐ映画。山崎努が驚くべき存在感によって得も言われぬ場所を表している。俳優というものもここまでくるとすさまじいものだ。そしてその奥さんを樹木希林さんが情緒の深い余韻の演技で、補完する。この難解な芸術の場の世界をこの二人が少しだけ表現してくれたかと思う。さすがである。それは「その場をみる」という世界観である。みるという行為の中にすべてがある。何もないところに宿るものを見る。熊谷守一の表わされた絵というのは、その場を見続けた後のカスのようなもので、見ている世界観の縁に過ぎない。そのカスのようなものが、不思議なのだ。何とも言えない暗示がある。何も示さないように、ただ見ているという意味。すごいものを見ているのでもない。心理を見ているのでもない。ごくごく当たり前の場のことを、当たり前に見ている。ところがこの当たり前がただならぬ、人間の生きるという場の真実に連なっている。かのように妄想が広げてくれる。
ヤイチ芋の発芽。私はこの姿を見つけて、つよく打たれる。
結局のところ、絵がすごいのではなく、その場に立ち尽くしている人間がすごいのだ。これが日本の芸術の在り方。しかもすごい人間というのは、すごいことができる人間のことではなく、生きるという当たり前の世界をとことん深めている存在ということ。アリが左の2番目の足から歩きだすと発見したところで、どうでもいいはずである。このどうでもいいことがどうでもいいとは言い切れないのが人間の見るという世界である。アリの足は、不思議な場へ踏み込む。すべてのことは実はどうでもいいことなのだ。どうでもいいはずの当たり前の日常の日々をどれだけ深く生きることができるか。目に映るすべてのものが、見えているのだ。誰にでも見えている。このただ見えているをとことん極めてゆくと何が見えるのか。最後は見えて居ようが見えていないであろうががどうでもいいところまで行く。ここが残念ながら私の言葉では描きつくせない。つまり見えるという意味がいまだつかみ切れていないから、のような気がする。
昔の私は鶏をかなり見ていた。そして見えなければわからないという事を知った。最近見ているのは稲の苗だ。良い苗が良い稲作の8割型を占めると、多くの稲作名人が語る。それなら良いイネとは何かという事になる。みればわかるはずでなければならない。見分けることが出来なければ、私にはまだみえていない。わかっていないという事だ。何百万本あるイネの中で、どの苗が良い苗なのか。お前にはっきりとわかるのか。眼力があれば分かるはずである。それを見てみたいと思い、稲作をやっているようなものだ。分げつをしてくる苗はどれか。大きな穂をつける苗はどれか。みてお前にはわかるか。見るというのはそういうものだ。漠然と見ているなどという傍観者的な見方では、場を見るのうちには入らない。この1本は間違いなく25本に分げつすると確信があるか。140粒の穂をつけると確信があるか。出来るならやって見せてくれという世界。私の見るはそういう俗物の見るだ。アリの左に2番目の足から歩くというような高尚な話ではない。でもこの俗物的な目で絵を描いてみたいのだ。