横綱白鵬の勝負審判への抗議

   

大相撲九州場所11日目の結びの一番。白鵬の横綱らしからぬ態度は、横綱という神聖な立場を貶めた。引退勧告すべき事件である。喜風との取り組みにおいて、嘉風が一気に押し出した。行司は勝負が成立したと判断し、嘉風の勝ちと軍配を上げた。土俵の下に落ちた、白鵬は不満げに手を上げ審判団を見まわし、勝負不成立を示した。こんな行為はいまだかつてなかったことだ。そして、土俵に上がらない。勝負審判の親方から上がるように即されても上がらない。不満げな表情で立ち続ける。何という醜さか。再三即され、1分ほど経過してやっと土俵に不満げに上がる。しかしまだ不満げの表情で、そっぽを向いて勝負が終わる会釈もしない。行司は仕方なくそのまま嘉風に勝ち名乗りを上げる。結びの一番であるから、弓取りの力士も土俵に登る事態だ。まだ白鵬は未練がましく、土俵に立っている。そして、弓取り式が始まると、やっと土俵を降りた。横綱に限らずこんな力士の姿を見たのは全く初めてのことだ。白鵬はこの批判の意味を理解できないのではないだろうか。負けて潔よくどころか、勝つことだけに価値を置いている。

昔、横綱大鵬は行司の見誤りで、連勝記録を続けていた大鵬を負けにしてしまった。翌日の新聞では行司差し違えだと、写真が大きく載った。明らかな行司差し違え、審判団の判断の誤りが確認された。その結果写真判定というものが、取り入れられることになった。その時意見を求められた大鵬は「判断を間違うような相撲を取った横綱が悪い。」こう答えたのだ。不満は一言も漏らさなかった。白鵬は大鵬以上に確かに強い。強いがどこか違う。つまり、これが国際的感覚なのだろう。日本独特の文化になじまない。馴染もうとしない。いわばトランプ的、そしてアベ的である。勝つことだけが価値がある。一番でなければならない。競争主義の横綱である。負けて見事と言われる勝負を認めない。今の相撲取りの中で嘉風の相撲は見事だ。負けた相撲でも、良く負けたという見事さがある。あの相撲が取り終わった時の、やり尽くした感が好きだ。相撲が捧げる神様は、何も強いだけを見ている訳ではない。全力でやり尽くすという事の意味を見ているのだ。

5穀豊穣の神様に捧げる相撲とはそういう事だ。ある時作物が台風ですべてが吹き飛ばされるかもしれない。しかし、自然を受け入れ、自然に感謝し、自然の中で暮らしを折り合り合わせてゆく。自然を司る神の前で力一杯の相撲を取ることで、その精一杯の心を神に開示しているのだ。勝負の勝ち負けの前に有る、この心こそ日本人の心だ。瑞穂の国の美しい心だ。この美しい心が正当に評価される社会を作ることが、日本国を司るものの役割であろう。勝つものがいれば負けるものもいる。負けたものも全力であれば、その全力を高く評価されなければならない。そうした社会があるからこそ、潔く生きることができる。勝つものだけが評価される社会になれば、勝たなければ自分の居場所がないと思い込んでしまう。ここに若者たちの絶望感が生まれている。たぶん白鵬は強いから自分が評価されていると考えている。確かに、国際社会はそうであるし、アベ的世界もそのような社会のようだ。

こうした横綱を作り出したのは相撲協会である。そして、日本人すべてである。ここを大いに反省しなければならない。4人の横綱がいるが、残念ながら、どの横綱も横綱にふさわしいとは言えない状況になってしまった。それは、横綱になる決まりが客観的な勝ち星だけで決まるようになったからだ。大関の地位において2場所連続優勝したら力士は横綱。この決まりが横綱をダメにしてしまった。公平という決まりが良くない結果を生んでいる。どうも忖度相撲が密かに蔓延して来ているようにも見える。八百長相撲ではない。モンゴル力士連合のようなものが、互いに忖度をすれば、何が起こるか想像できる。これほど勝ちにこだわる人たちだ。今度の貴ノ岩の事件の背後には、貴ノ岩が白鵬に勝ったことが発端のようだ。忖度をしない貴ノ岩に対する制裁という事でなければいいと思う。

追記、審判部の白鵬への処分は厳重注意に終わった。何たるだらしなさである。少なくとも今場所出場停止程度は、最低でも行わなければならない重大事である。事の重大さも理解できない相撲協会は、大切な精神を失い、採算だけしかわからない人たちになったという事だ。これも日本の現状の反映なのだろう。

 

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