野党の質問時間の短縮
自民党は野党側の質問時間を議席割合に応じて削減するよう要求した。アベ政権は議論を丁寧に行うはずが、すでにソフト独裁の姿をこのような形で現した。国民は選挙によってこういう結果を招いてしまったことを、肝に銘じなければならない。選挙中にアベ政権の主張した、今まで以上に丁寧な議論を展開するという主張は、真っ赤なウソだったのだ。国民を騙してしまえばこのような独善的主張をする。従来質問時間は野党8、与党2が慣例だったという。この意味は与党は予算案や法案を与党内で練って、提案する。だからこの予算案や法案に対する与党質問というものは、最小限でいいはずである。実際に与党の質問をテレビで見ても面白くもない。自分はこれほど安倍内閣を支持しています、というような無意味の時間つぶしが大半である。与党の多くの議員が売名行為をしたいと目白押しになっているのだろう。もし本当に質問がしたいのであれば、法案を練る段階で十分に意見を言えるはずである。問題は自民党内で議論が封じられている点であろう。
野党が政府の提出する法案に対して、質問をする。問題点を指摘する。これが国会という議論の場の意味である。それは選挙中は丁寧な議論をしつこいほど主張した自民党の考えでもあったはずだ。一体ここでのすり替えは何が原因しているのだろうか。要するにアベ疑惑に関する質問をされたくないからとしか思えない。私もこればかり質問することはくだらないと思う。アベ政権に対する忖度というのはもう明らかなことだ。忖度を許しているのは国民なのだ。日本の国柄といってもいいのだろう。日本人らしい思いやりとか、おもんばかるとか、おもてなしとか、配慮とかいう、伝統的価値観が悪く働いている。つまり、配慮してあげれば、配慮してもらえる。という暗黙の了解という伝統文化がある。総理大臣だけではなく、日本人一般の暮らし方である。打算だけではないところのものだ。ところが、こうした競争社会の中では、思いやり文化が打算の競争文化に組み込まれたのだ。これがアベ忖度事件だ。
次の国会での議論は憲法ではなかったのか。それが安倍内閣の最終目的ではなかったのか。憲法議論を十分に行うというのは、政府提案を持ち上げる提灯質問など無意味である。政府は良いと考えたから提案するのだ。与党議員は提案前に十二分に議論しているはずである。もしおかしいと考えるのであれば、提案前に徹底した抵抗をすべきだ。国会での質問はその次の段階のことだ。いまさら与党議員が質問をして時間をつぶすのでは議論時間が不足する。内閣はその質問に答える時間が与えられている。ここで与党の意見を述べればいいのだ。安倍氏の回答が長すぎるということが野党からいつも言われているではないか。こうして議論が十分に行われた結果を持って、憲法に関する国民投票が行われなければならない。
アベ政権が本音では憲法論議をする気がないということは何を意味するのか。議論をすればするほど、憲法改定の必要がないということになるからではないか。憲法学者には自衛隊を違憲とする人が多いい。それは学問的に議論を尽くし、論理に素直に従えば、そのようになるからである。議論すればするほど、論理性を通そうとすれば必ず、与党の憲法解釈には無理があることが明確になる。だから憲法を変えたいということはわからないではない。しかし、その前に憲法を変えたところで、憲法を曲解する姿勢があるのでは、何の意味もないという事を確認しなければならない。まずは立憲主義である。政府は憲法に従い政治を行うという当たり前のことを行うことだ。政府から独立した憲法裁判所を作らなければならない。立憲主義を尊重する政治の確認である。