農業経験主義の超え方
自給農業での失敗の原因は、体験から来た思い込みが多いい。思い込みがなければ、日々の良かれという農作業など続けられないものだから、仕方がないこととは思う。農業者一般に科学的な分析力は求められていない。こうやった時に、こうだったという経験の積み重ねから、それぞれの思い込みを形成して頑張る。だから、断定的な結論を持つ人が多いい。先日も、緑肥を蒔くのに耕したという事で、自然農法の先輩から耕したのは間違いだという指摘を受けた。たぶん耕して失敗した経験が、たびたびあるのだろう。当然のことだ。その年の気候によって様々な結果になる。科学的に考えれば、耕さないで緑肥の種を蒔くことと、耕して蒔く場合との比較を、様々な条件のもとに行わなければわかることではない。耕して蒔くとしても、蒔いて覆土するのかどうか。さらに鎮圧はするのかどうか。加えて、その田んぼや畑の条件も様々である。個人の体験は間違いではないのだが、その思い込みが一般化することはない。
100人が100通りの考え方を持ち、その中から自分に適合する考えを見つけなければならない。だから、私が書いている自給農法の技術も、全く私の一つの体験である。一人は一人はより正確に自分の体験を記録することが大切である。その100通りの方法が、101人目の農業者の何かの参考になる。農業者は常に未知の開拓者である。常に新たな地平に向っているのだ。過去の体験はあくまで昔の話で、参考に過ぎない。参考となる話は、100通り必要なのだ。だから、農業で徒弟制度はあり得ない。師匠と呼ばせるような、農業の指導者もいるが、それではえせ宗教家だ。農業で伝えるているのは、考え方なのだ。読みの手法なのだ。物の感じ方、見方なのだ。将棋の師は弟子と将棋はしない。将棋指しの暮らしは伝えるが、具体的な技術を伝えることはないのだ。それを伝えたら、成長を阻害するからだ。
学んで知ったことは示すだけでいい。人のやることに口を出すのは我慢した方が良い。農業は生き方であって、ただの技術ではないからだ。それが良いとしても、やれるかやれないかは、暮らし方にもよる。作物に消毒をするかしないかは、その人間の判断である。どちらが正しい選択という事ではない。自分が病気になった時に、どうするかという事と、同じことである。それゆえに販売のための作物と、自給のための作物とでは、違う農法になるところだ。医者であれば、他人の病気を治さなければならないが。自分の身体であれば、自分で対応すれば責任は果たせる。人間が死ぬという事を受け入れているかどうかで、農法も変化する。自給農業では、それだけで自分が生きてゆくのだという、販売農業よりも厳しい条件が必要である。今年も繰り返されている採れ過ぎの大根の廃棄処分など、自給農業とは別次元の話になる。
体験というものは、正反対のことが起こる。水をやってよかったというときもあれば、乾かしてよかったという事もある。そこで判断の基準というものを持つ必要がある。私は収穫量だと考えている。周辺の農業者より、少ない収穫量であれば、何か問題がある。力がある作物とか、身体によいとか、味の良いとかいうような曖昧なものを基準にすると、方向を失うことになる。有機農業とか、無農薬というのは、作る人の問題で、そのことに価値があるわけではない。つまり自分の生き方であって、自給農業にとっては、自分が食べるのであるから、自分が決めればいいことに過ぎない。元気で健康な作物は収量が多いい。有機農業で、元気な作物ができないのであれば、何か問題がある農法と考えなければならない。自分の体験に対して、収量という観点から、検証をしていかなければならないと考えている。