農業の国際競争力

   

農業にも国際競争力を持ち込み、競争の原理で生産性を向上させようというのが、政府のTPPを妥結する上での方針のようだ。資本主義の競争の原理を農業分野にも持ち込めば、技術の向上や生産効率の改善が図れるだろうという、考え方を政府は持っている。これは一面の真理で、半面の地域崩壊を招く。農業が競争の原理ではなく、協働する産業という歴史を忘れている。農業では隣のおじさんが技術や販売のノウハウを指導してくれるのは、ごく普通のことだ。技術を隠すことなく公開しているものだ。それは、地域全体が良くなるという目的が、自分が良くなるという事と同じように意識されてきたからである。それがプランテーション農業と、地域農業の違いなのだ。自分のところの技術を盗まれないように隠して、人を出し抜いて得しようとしているのでは、地域農業では難しいのだ。むしろ、互いに教え合って、地域全体が良くなった方が、結局は自分にも恩恵があるというのが、4千年の東洋の地域農業の文化なのだ。

ところが人を出し抜かなければ、成立しないというのが、資本主義の原理であるプランテーション農業であろう。確かに、分野によっては競争で技術を磨いてきた成果もたくさんある。農業の場合、遺伝子組み換え技術というものが、その競争的技術の象徴である。アメリカのモンサントという農薬の企業は、農産物に遺伝子組み換えの特許作物を作り、国際競争力をつけようとしている。この技術でやれば、食糧危機も救済できるという触れ込みである。シャボテンの根に稲の実が実るような、遺伝子組み換えが出来れば、砂漠でお米がとれるという発想である。雑草すら生えることができない場所が、農業生産の場所になるのだから、完成すれば国際競争力はあるだろう。今のところ、虫が食べないトオモロコシが、野生化して生態系にどういう影響があるのかが、わかっていない。不透明な技術ではあるが、国際競争力があるというので、アメリカは極めて熱心である。遠からず、遺伝子組み換えでない大豆だけを食べることは不可能になる。つまり、植物の世界では、いったん広がれば、食べたくないというものの拒絶する権利も侵害されることになる。

競争に勝つためには手段を択ばないというのが、資本主義化のグローバル企業の論理である。競争が激しくなればなるほど、目に余るような企業倫理の崩壊が見られる。フォルクスワーゲンの排ガス偽装など、氷山の一角としなければならない。競争に勝つという価値観がすべてに優先する。その恩恵も大きい訳だから、競争を否定するつもりもない。農業では競争の原理だけを強調することでは、失われるものが大きすぎるという事だ。地域社会というものは結のような、協働によって支えられてきた歴史がある。現在も、日本全体で言えば、まだまだ自治会組織によって維持されている暮らしがある。行政は日増しに財政的なひっ迫を迎えている。同時に、地域社会は消滅の危機に瀕している。これを何とか維持しているのが、伝統的な自治会組織の最後の努力である。しかし、地域の農業が衰退すると同時に、自治会を支える力も限界にきている。いよいよ地域消滅である。

農業者の存在が地域社会の最後の歯止めになっている場合は多いいと思う。普通に企業に勤務しているものが、地域の自治会長など間違ってもできない。農業者だから閑という事ではないが、何とか時間のやりくりをして、地域を支えている人もいる。しかし、農業がすべて企業化して、国際競争力を求められるとすれば、地域における余力というものはますます失われるに違いない。競争の原理という一面だけで農業を見てもダメだという事だ。国際競争力のある農業を推進する以上に、その反作用の起こる地域に密着した農業の在り方を模索しなければ、地域社会はたちまちに衰退するだろう。何しろ、農業者の平均年齢は67歳なのだ。幸い、新規就農を目指す若者もいないわけではない。どのようにすれば、地域の中で生き抜いてゆける農業が可能なのか。こちらの方の育て方を模索するのでなければ、地方創生どころではないだろう。

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