戦争の始まり方
トルコがロシアの戦闘機を、シリア国境で爆撃した。両国がそれぞれの正当性を主張している。その相手への憎悪が徐々に高まっているように見えるが大丈夫だろうか。それを取り巻く世界各国が、それぞれの見解を述べている。おおむね戦争にならないように自制して、話し合いをしろと言うものだが、戦争に正義などないことがよく分かる。要するに理由も目的も明確でないまま、怒りと思惑で戦争は始まるものだ。今かろうじて武力が拡大しないのは、国同士の全面戦争があまりに大きな代償が待っているからだろう。世界中の報道が様々な解釈を述べている。日本に聞こえてくる主なものは、シリアのアサド政権を支持するロシアは、イスラム国を攻撃すると言いながら、実は反政府勢力を攻撃していると主張している。アラブの春を乗り越えアサド政権は維持されてる。シリアで起きている内戦状態は、アメリカを中心とする勢力と、ロシア勢力との代理戦争化しているのだ。
イスラエル問題も背景にある要素である。イスラエルを支持するアメリカを中心とする、日本を含めた勢力は、一部のアラブの中の支持を取り付けている。そして、ロシア、中国はイラン、シリアを支持することで、アラブ世界における位置を固め、アメリカの覇権主義を阻止しようとしている。アメリカを中心とした有志連合と言われる国々は、反独裁主義、民主主義政権の成立が大儀である。一方、ロシア、中国が支持する、アラブ諸国は民族国家の問題がある。クルド人は一定の国家を持たないにもかかわらず、2500万人から3000万人が存在するといわれる。イラク戦争後クルド人はイラク国内にほぼ国家と言ってよいものを作り出している。そして、トルコやイラク、シリア、イランでは分離独立を求め、長年地元政府との間で武力闘争を展開してきた。民族問題と、国家との問題。植民地という歴史。そこに石油という経済がからんでいる。
そして、イスラム過激派の登場である。アルカイダ、そして、イスラム国。宗教的問題というより、経済格差の問題が大きい。先進国内部の格差の拡大もあれば、国家間の格差の拡大もある。そこに希望が見えない状態を生んでいる。日本政府は、イスラム国をあえてISと呼んで過小評価して、テロ集団に過ぎないとしようととして失敗した。それは、クルド人を少数民族として扱って小さな問題と見ようとして失敗していることと同様のことである。アラブ世界は常に戦争の火種になってきた。それはヨーロッパによる植民地支配がそもそもの出発にある。民族と国家の関係をでたらめにしてしまったのだ。そして、独立したいとする各民族主義に対して、利権を背景に各国が武器の援助をしてきたのだ。こうした混沌が百年も続いたために健全な民主主義の成長ができないまま来てしまった。
日本は主体性なく、アメリカの主張のままに、又利益のおこぼれをもらおうとでも言うように、うろちょろしているに過ぎない。パリでの首脳国会議を見れば、いかに日本の影が薄いかがわかる。独自に外交を展開していない、アメリカの同伴者程度であれば、安倍氏がいくら世界中を歩き回ったところで、肝心な場面では自分の存在を主張できない。どうすれば戦争をなくせるかである。暴力によって解決できるようなことは、何一つないということに気づくことだ。暴力は怒りの発露であって合理的理性とは関係がない。ロシアがイスラム国ではなく、シリアの反政府勢力を攻撃することは、何の正義もない。アサド政権の援護射撃だ。アサド政権に問題があるかないかは、別問題である。イスラム国は国際テロ集団である。この犯罪行為を取り締まるということは世界が一致して行うべきだ。この違いを明確にすることだろう。ロシアも、クリミア問題以来、苦しいはずである。追い込まれれば冒険主義になる。ここを解きほぐすために、安倍氏は間に入る首脳会談をしてほしい。