水彩人展はじまる。
会場の様子。
展示が終わり、無事展覧会が始まった。事務所の仕事に追われ会場に行けたのは、5時を過ぎていた。良い会場になった。新しい人が36名も増えて、新鮮な会場になっている。私の絵は少しエネルギー不足。おおいに刺激になる。これは東京で、タブレットで書いているので、頭が動かないので少しずつ書き留めたいと思う。東京都美術館には私のパソコンを持ち込んでいるのだが、インターネットがつながらない。
会場入り口
水彩人らしい、型破りなものが出た。特に大原さんの仕事は刺激を受ける。絵に元気がある。それに比べ私の絵は力が萎えている。弱い、こんなに静かな絵を描いたのは初めてかもしれない。これが衰退なのではないか。その可能性も高い。しかし、自分に接近してきたのかもしれない。私絵画とはそのようなものかもしれない。それよりも衰えが出てきたと言うことは向かい合うこと。当然のこと。無理をして 力むきはしない。昨年の西さんの絵との出会いがあって、ここまでこれたと言うことでもある。
会員3人がとても良い絵を描いた。そして同人に推挙された。一般の応募者では4名の方が会員に推挙された。例年以上の成果があった。(ここからパソコン入力)同人推挙 松原 瞭子 山吉 トシ子 上田恭子以下の写真は、許可を得ないで載せています。どうしても見てもらいたくて、載せてしまいました。他には使わないでください。
写真の掲載したいと思うのですが、まだ了解を得ていないので、許可が得られたら載せます。稚拙ともいえる。素朴な描き方である。初めて描いたような素朴な筆触をとおして、色鮮やかな、明るい世界が現れる。陽気な音楽のような絵だ。この率直な表現こそ水彩の持ち味である。誰でもできそうな絵なのだ。しかしそれはこの絵の入り口の優しい表情なのだ。迷い込んだ迷宮は複雑でなかなか手ごわい。何でもないような動画的な、気ままな表情こそ、奥深い混とんを感じさせるものがある。なかなかの表現者なのだ。
山吉さんは大きい絵は描かない。10号くらいの絵だけを描いている。大体は現場で描いた写生画なのだと思う。見えているものに、どのように向かってゆくのかという絵ではないか。初めて絵を見せてもらったのは、水彩人が始まってすぐのころだ。今回その言われていたところに、ついにたどり着いたようだ。長い道のりであった。沈み込んだようなときもあった。しかしそうしたときも同じ姿勢で、自分の見えている霧のようなくっきりとは見えていない世界を描き続けている。だから、山吉さんにしてみると、見えているとは、良く見えない世界ともいえるのだろう。確かに世界は見えているようでよく見えない。その明確にならない世界というものを、明確にならないまま正直にとらえようとしている。これは苦難の道である。いわゆる絵描きを目指せばこんな絵は描けない。まさに私絵画ではないだろうか。
上田さんの絵。少し写真写りがおかしいく、もう少し暗さのある色の絵。ともかく美しい絵である。水彩というものの美しさを率直に表現している。上田さんは自分の心をそのまま画面に表現してしまった。なぜこんなことができたのだろう。全く奇跡のような絵だ。絵に向き合う姿勢が良かったので、神様がここに導いてくれた福音のような絵だ。正直上田さんは長い間混乱の中で描いていた。自分も苦しかっただろうし、見る側には何がやりたいのかよく分からないかった。意思の疎通が難しい絵だった。歯がゆい絵だった。しかし、その歯がゆい絵を揺るがず続けていた。その姿勢はかたくなにも見えたが、その奥にある純粋なものにとても期待していた。それが花開いた。今回水彩人に並んだ絵の中の最高の宝物のような絵だ。
これが私の出した絵の一点。私の絵の写真は、どこでどう使おうが構いません。4点出している。どの絵も中判全紙である。やはり私絵画である。絵にするという意識を捨てるということ。ただ見えたように描くことに専念している。見える目の方を深めようと考えている。その見えているということを書き留めておこうという気持ちが、絵を描きたいということになる。