一億総批評家
戦後、一億総懺悔論というものがあった。戦争に至った責任はすべての国民にあった、という責任逃転嫁の考え方。東久迩宮首相が述べたとされる主張である。しかし、国家の戦争責任を曖昧にする考え方だという批判が巻き起こった。先日Oさんが、原発に対して同じような、総懺悔論が出ている事を危惧されていた。国や東電の責任が曖昧にされるということである。私の考えとしては、原発を止められなかったことに対しての反省は、懺悔と言うつもりはない。ただ、東電や国の原子力政策に対する、反対運動が限定的で、広げられなかったことは反省している。小田原でも浜岡の原子炉停止訴訟に名を連ねている人もいた。私も浜岡の危機は、深刻に受け止めていたので、運動がまだまだ足りなかったと考えている。なにしろ、生涯を反原発にささげている、京都の小出先生でも運動が不足していた事を、謝罪されていた。そう言う自己批判はある。
謝罪するのは、あくまで原子力の危険と、無意味さを知りながら、電力会社や国の原子力推進をつぶせなかったことに対してである。つまり、戦争責任に対する総懺悔論は、アジア諸国に対する戦争責任をないがしろにしている事だ。軍国主義を止められなかったことに対する責任の問題である。その意味で今反省しなくてはならないことは、反原発が曖昧になってきている、他人事でない責任の問題である。今原発の再開をさせるようであれば、まさに未来の日本人及び子供たちに、責任が果たせないことになる。政府の杜撰な手法の再開に対して、さてそれでどうするかである。理屈では原発が危ない。間尺に合わない。かなりの人がそう感じている。それでも、事故などめったなことでは起きない。今原発を停止して、日本経済がひっくり返ればその方が、国としては大変なことになる。こうした考えが勢いを増してきている。この未来の日本人に対する責任をどう取るかだ。野外の自動販売機が動いていて、電力不足など不自然ではないか。
テレビが広がった時に、大宅壮一という評論家が、一億総白痴化と言った。その後一億総中流という言葉が出た。いずれ、日本人はこうしたパターン思考が好きだ。好きな位なら良いが、原発総懺悔論の危険とような、精密さのない批判は議論をつぶす可能性がある。足をすくう議論になる危険。確かに、テレビで日本人が深く考えなくなったとも見えが、悪いだけでもない。今の時点で思うのは、インターネットで日本人が変わってきているという事だ。ますます行動しなくなった。意見は述べるが行動が弱くなった。事情通になって、訳知り顔で意見は述べるが行動が伴わない。一億総批評家現象。変えたいと思うが変えられないということを頭で理解してしまう。政府はなし崩し的にまたぞろ押し切るのだという無力感。選挙を考えても、民主党も、自民党も、原発再開を目指すだろう。両者ともに原発を争点にしない。TPPも争点にすらしようとしない。消費税に意識をそらす操作。結局国民が血を流しても戦うという真剣さが失われた社会。
この事は社会の衰退なのか、退化なのか。逃避現象か。情報で分かりってしまい、評論家になる。結論に到り諦める。その理解の内容は行動から出てきたものでないために、理解が血肉化していない。情報操作されやすい危険をはらんでいる。放射能のこともインターネット情報を知れば知るほど、却って本質が分からなくなる。稲藁に含まれた放射能。これが土壌でどうなるのかが分からない。吸着していて出てこない。水にほどなく溶けだす。両方の意見がある。田んぼをやる上で知りたいことは、実際にどうすれば玄米から減らせるかだけである。震災瓦礫処理の世論の動向と、政府の利用の仕方を見ると、本質隠しの手法のように見えて仕方がない。瓦礫処理に対し、科学性を無視したエキセントリックな批判が起こる。原子力批判を、重ね合わすように見せる。