「自給」について

   

「自給」は個々人の生き方の方角である。暮らしと言うものは本来自給する姿のことであった。自給でない日常を、暮らしと呼んでいいのかは難しい所である。自給から離れることで、暮らしという意味合いから離れた生き方になったのだと思う。暮らしを作るという基本は、食べ物を自給するということである。このことは安心立命の出発である。自給するとは自立するということである。生きるという原点の確認である。生きると言うことは不安に満ちている。命が日日生き抜くと言うことは実に大変なことである。毎日食べなくてはならない。これだけは確かな役割だ。命と言うものの宿命である。これを自らの手の内のもにする。これが生きる基本である。このことから生命が離れることは、暮らしが分業される社会は、不安定な社会である。分業される社会は生産が合理的された社会である。

食べ物を自給すれば今日明日と生きられる安心を得る。生きるというもともとの姿が見えてくる。自分の生命と向かい合うことになる。分業された社会は暮らしと言うものを見失う社会である。食べ物が自分の自由にならないということは、命を支配されることになる。難しい事ではあるが、暮らしてゆく全体を覚悟することになと言うことになる。仏教でいう「覚悟」は、真理をさとることを意味する。つまり悟りを開くことである。死ぬことを諦めるということを、明らかにすれば、受け入れられる。生きることを明らかにするには自給することからである。人間の悲しい宿命は命への執着である。理解しない限り諦めきれない、理性と言うものがある。この生きる原点を自給することで見極める。何にも依存しないただ一人の自分が、生きると言う事に向かい合い、見つめて見ることである。こんな風に正しいと思う事を大上段に書くのは、自分をごまかす事でもあり、良くないのだが一応思いつきをかいておくと言うことで。

自給はその行動である。行動が伴えば私のような凡夫でも、真理の自覚に近付いて行ける。自然と言うものには、間違えというものは一つも無い。例えば、秋に花を咲かせてしまう桜がある。狂い咲きと呼ばれる。しかし、自然の摂理に置いては、秋に花を咲かすだけの、真実が存在したはずである。狂った原因を、その真実を学ぶ以外に人間は出来ない。必ず、因果応報で原因があり、結果である。自然は人間の存在を越えた、大きな摂理に従ってまわっている。自給するとはそう言う自然の摂理に合わせると言うことである。合わせることでその摂理を、行動的に、肉体的に明らかにすると言うことになる。ただ苦行することで自覚できるものもいるだろう。しかし、私のような普通の人間には、命に繋がった生産性のある、食べ物を自給すると言う行動が必要になる。

食糧自給は難しいことではない。大抵の人に出来ることである。100坪、一日1時間で可能である。邪推かもしれないが、他者を利用して社会をコントロールしようとする人間は、その事実を恐れている。本来人間は平等である。平等に生きることが可能だ。他者を利用しようとするものは、分業する。競争するものは支配しようとする。まずは一鉢に一粒の種をまくことでいい。その行為から、感じる何かがあるはずだ。どうせなら、その鉢には自分で作った段ボールコンポストのたい肥を入れてみる。200円あれば出来るだろう。ネギの根っこならタダである。窓のない部屋なら困るが、普通の家の窓辺で誰にでもやってみれることだ。面倒くさい人は出来ない理由を探す。その一鉢が、自分を変えてくれるかもしれないという事を知らないからだと思う。しかし、一粒の種から実った、作物を食べて見てその自然と言うものの、宇宙の摂理に近づく人もいる。

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