「旬」について
自給生活は旬の暮らしである。今そこにあるものを食べる。そこにあるもので暮らす。それが安心に生きると言うことになる。それは土にゆだねて生きると言うことである。土に従って生きると言うことである。季節に従うと言うことになる。その土地の四季に合わせて、暮しを合わせて行く。自然の最善とともに暮らす。自然の輝きとか、恵みを受け取るという暮らしになる。自然とのかかわりを大切にして、自然を頂く。生きると言うことは食べると言うことである。一旦旬にしがう決意をすれば、その日々の行動が豊かさなのだと気づくことになる。どこまで自然に従えるか、命は土から生まれ、土に戻る。食べると言うことは土になるということである。すべての命がその摂理に従う。そのしばらく時間を旬に生きる。旬はひとつの思想であり、食べ物の生命の本質を表すことばである。
冬の畑に立てば、その寒さに身は凍える。凍える寒さと一体になることも旬である。寒さを拒絶せず、寒さに身を切られることが生きるという一つである自覚。冬を旬とする作物は寒いという事を生かして生育して行く。土は凍りついても次の季節を準備している。旬を意識化すること。この冬の畑でも命は滞りなく、育まれている。命に満ちている。命の充満を感じることが旬に生きることである。旬の作物とは、寒さを十分に受け取っている作物。毎日凍りながら、弱い日差しを集めている。霜柱の中で赤く糖分を集めながら、命を育てている。春の畑は湧きあがるような新生である。土壌がよみがえること。暖かさを受けて眠りから覚めるにぎやかな命。多様な作物による畑の再生。種をまく季節。芽生える季節がとしての春の旬。夏の成長。秋の実り。時に従うことしか出来ないことに気づく。夏の実りのトマトを食べると言うことは、夏の身体になると言う事だ。
農の会の理念にある「自給」は個々の人間がどのように生きるべきかである。「地場」は地域社会がどうあるべきかを表している。「旬」は世界がどうあるべきかの思想哲学である。すべての根幹となるものだ。旬に合わせ、自然に即して人間は暮らすしかない。例えば、エネルギーは自然の再生可能エネルギーを循環して行かなくてはならない。それが自然のあり方である。冬にトマトを食べることは摂理を踏み外している。この事を一言でいう言葉として、旬という言葉を考えたい。この言葉の旬の哲学について、深く意識化がしなければならない。自然の最善を頂くと言うことの範囲で、人間存在はあるべきだ。この世の中に存在する間がその生命体としての人間の旬となる。この生きている命の輝きを、十二分に輝かせるためには、自然と言うものの旬に合わせる事。
旬とは、旬を食べると言うことは、自分の生命にとってどのようなことか。旬の姿を知ることは、生きることが必ず終わるものであることの認識である。そのものと遭遇する必要がある。その時その場所に、ふさわしく育つ命を頂くと言うことの大切さ。旬に従う暮らしは、当たり前の暮らしである。特別でもなく平凡な人間そのままである。その旬の日々を感ずる暮らしを通して、命の自覚に至る。当たり前のもを、より深く、その最高を味わう。そのことを通して、自分が生きると言う事を当たり前に、自覚的に見つめること。農の会を立ち上げた20数年前から思えば、地場と自給はかなり一般的になった。しかし、その本質にある哲学としての「旬」が覚悟され、3つそろわない限り、魂がこもらないものである。