2冊の本のこと

   

本が送られてきた。このブログを読んだと言うだけの方からである。最近気持ちが落ち込んでいるので、とてもうれしかった。今も机の上に並べてある。「八木重吉詩集」創元社発行の昭和23年のものだ。私の生まれる前年の戦後の苦しい時代に出版されている。もう一冊が「自然農の野菜作り」である。これは伊豆の高橋さんが書かれたものだ。本にある写真を見て高橋さんの元気そうな笑い顔で、そうだったといろいろ思い出した。本を送ってくれたのは、fukusimaさんと言う方だ。お会いしたことは無い。八木重吉詩集のことなど書いてあるのを読まれたらしい。それでこの本を送って頂いた。私が生まれる前年に作られたもの。この本は草野新平氏がまとめたもので、没後20年と言うことである。二人の遺児は夭折し、現在とみ子未亡人は吉野秀雄氏方に假寓とある。ここにも物語はさまざまある。開いてみるととても大切にされていた本のようだ。愛読者カードまで入っている。

大分背表紙が弱くなっているので、恐るおそる開いてみた。どの言葉も、詩と呼ぶより呟きのようなものだ。そのつぶやきが、ただのつぶやきでなく胸に迫ってくる。小石を見れば小石に、雨には一段と心が打たれたようだ。雨の詩が沢山ある。

「雨」
雨のおとがきこえる
雨がふつていたのだ

あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう
雨があがるようにしずかに死んでゆこう

詩と呼んでいいのか、ことの葉と言うのか、心から直接こぼれ出て来る声。沁み出ている。ほんとうの詩人と言うのは、人間の極限のような貴重で大変なものだと思う。

高橋さんの「自然農の野菜づくり」創森社刊は、正直そのものである。監修の川口さんもそうなのだが、不思議な宗教的臭いはあるが、とても正直である。やっていることをそのまま書いている。出来ないことは書いていない。大抵の野菜作りの本は、誰にでも出来るように、脚色して簡単に書いてあるものが多い。正直な高橋さんには、自分の場合はこうですよと、本当のことはしか書けない。普遍化は出来ない。普遍化できるとしたら、その裏側にある自然を見る目の方だとおもう。ところがこちらの方は、読み手の側に読み取る能力が必要となる。川口さんの「妙なる畑」ではその見る目の方だけが書いてあるから、どんな稲作をやっている具体的な所は分からないものになっている。それが信者さんには有難味であり、部外者には眉唾になる。それを払しょくしているのが、この高橋さんの本だ。摩訶不思議な所がない自然農のあたりまえの姿。

あるかないかの一つの夢ですが、いつか1冊の本がまとめることが出来るとすれば、絵本のような、詩集のような、自給の暮らしの技術書がいい。例えば、白いページに筆触で、てんてんてん、と点が打ってあり、こんな風に種をまいてゆく、と書いてある本。ただ線の練習のように横に線が並んでいる。畝は呼吸に従い作り出し、紐で真っすぐになどしない。と言うような役には立たないことが書いてある。そんな技術書がいい。美しい鶏の作出法は一項目必要になる。どうでもいいことに満ちた、しかし、繋げなければいけない暮らしの本である。畑は画面である。それは毎年繰り返されながら、痕跡を消してゆく。潔い画面である。潔すぎて本当のところが伝わりにくいものである。雨土は絶えざる経を読む。八木重吉はその読経の意味を感じていたのだろう。

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