大江戸リサイクル事情
「大江戸リサイクル事情」石川英輔著講談社文庫を再読した。気軽な本ではあるが、内容は重い。江戸時代に戻れば、今の人間には耐え難い貧困生活が待っているのだが、それでも戻るしかない。と言うような内容である。それは本音であるのかどうかは怪しいのだが、江戸時代に戻れば大丈夫という本である。その江戸の社会がどんな社会であったのか。その想像を絶するようなリサイクルシステムを細かく分析している。江戸のことだから、講釈師行って来たような嘘をつき。と言うきらいもあるのだが、ともかく面白い。すでに通例に成っているが、糞尿のリサイクルから始まる。たぶん、糞尿が相当に高価な生産物であったという、もっとも話を普及した本である。なにしろ、長屋の大家さんは糞尿の上りで生活が出来た。これを一人何グラム生産するから。ウンヌント細かく説明がしてある。こういう話を得意にする人はいるものだ。力んで無から有を生む説得力がありすぎる。
後は、もうすべてものがリサイクルに繰り込まれていたことは当然である。かまどの灰まで持って行きやがれ!ということに成る。ついつい江戸礼讃に成りがちなところを、繰り返し江戸の暮らしは最悪の貧乏社会で、耐え難いことであるの断り書きが入るが、それはあくまで批判を予測して先手で、機先を制しているにすぎない。本当はこの人は江戸の方が好きなのだ。そう言えば誰も聞いてくれないので、必死に現代人であることを強調している。私ははっきり江戸の水飲み百姓で結構である。もうそういう覚悟である。便所を花見に担いでゆき、ただで糞尿を頂いてしまうような、かしこい百姓が良い。次々便所に入る人たちを見ながら、花見を一緒にしている大儲けが好きだ。バカバカしいような工夫に満ちた社会。ネパールで道路に麦を置いて、通る車に脱穀させているような、気の遠くなるような姿が良い。裏の田んぼに行って、稲刈りをしてご飯を炊くような社会が好ましい。
自然エネルギーだけの社会はそこまで来ている。来させなければ人類は困る。とても困る。その時に、大半の人の心配は今の生活と同じ、浪費的暮らしを望んでいることである。夏は風鈴でなく冷房である。そうしないと、熱中症で死んでしまうことになっている。江戸時代は、夏涼しく過ごすために、江戸の町を石畳にしなかったと書いてある。コンクリートの住宅等とんでもないことだ。家は夏向きで、冬が寒い。きっと今の人なら、冬凍死することになっているのだろう。わたしは暖房を使わないが、今も寒いが耐えられないほどではない。結局死ぬということがもっと身近で、どういうことかが明らかになっていた。無常憑[たの]み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。ということで、覚悟が良い。命にも執着しない潔さが江戸ッ子の粋の世界。武士道の方もそう言うことのようだ。寿命も短い。到底、現代人には耐え難い世界だということはわかる。
それを覚悟しない限り、今度は巨大太陽光発電で自然エネルギー生活と言うことになるだけだ。人間が生きる喜びと言うものがどのあたりにあるのか。このあたりを再確認の必要がある。自給で食べ手入れば、へんてこなキュウリを生で食べても、どんな料亭の料理にも勝るものがある。江戸時代の耐え難いことは、身分制度である。油川の本家に行くと、我々下っ取りは上がれない部屋があった。広間の方は、当然上がれないが、その広間も3段になっている。油川の家だって百姓である。それは、百姓はその中で身分を作り、その全体が、士農工商である。これが無くなっただけでも、今の社会の方が確かにましである。その増しがいつの間にか、金権主義によっておかしくなっている。金持ちは散財しなければ粋ではない。粋な金持ちになるのは大仕事のようだ。お金より大切なものがあった時代。