ユーロと為替レート
ヨーロッパ統合と言うものが、今週あたりが土壇場である。日本もアメリカもそうなのだが、ヨーロッパの場合、国家統合という大目標があり、その1っ歩としての通貨をユーロで共通にするという大胆な試みが、どういう結果になるか、いよいよ結論が出そうである。ヨーロッパの歴史的蓄積、社会資本の蓄積と言うものに計りしれないものを感じる。教育機関、病院、道路、鉄道、オペラハウス、美術館。だいたいの公共施設が過去の豊かな時代に整備が終わっている。それは帝国主義時代の世界の富の収奪と、消したくても残って行く石の文化を感じる。今円に対して、ユーロが下がってきているということが、信じがたいものがある。先進経済国が等しく経済が苦しいのは、当然のことでその時に、ヨーロッパこそ評価が上がって行くのだろうと思っていた。
昔、漫才師のケイ子師匠が株はやらないけれど、新聞の株式欄は必ず読むと言われていた。確かに株の動きは、社会の何かが反映しているようだ。同時に為替レートの動きと言うものも、国の比較というような、何かを表しているようだ。株価と為替レートの変動を眺めていると、この先の事が少し見える。フランスに住んでいたことがあるので、ユーロ対円の動きの方が、ドルよりも考えやすい。ドルと言うもので暮らしたことが無いので、1ドル77円とか言われても、感覚が無い。1フランが103円とかいうと、まさかという感触を覚える。フランとユーロは違うので、実はもう良く分からないので、分かるような気がすると言うに過ぎない。為替は投機を目的にした、巨額な資本が動かされ、経済とは関係がないように変動する。中国の元が固定化されているということが、批判されるが、果たして通貨が経済の実態以外の要素で、乱高下する事がいいことなのだろうか。
ユーロと言うものが出来て、民族や国家を通貨が越えた。越えたならば誰かが、損をするのか得をするのか。損得はないということだろう。元と円が統一されたとすれば、損得はあるのかという話である。私はないと考えている。個人にとっては円だろうが、元だろうが、どちらでもいい。輸出入する人にとっては、為替レートは重要であろうが、ユーロ圏内であればレートが無くなるのであって、気にする必要は無くなる。今ヨーロッパで起きている事を見ると、ギリシャのように杜撰な粉飾決算をした場合どうなるかである。ユーロ全体の信用不安が生じてしまう。つまり、江戸時代の藩札のように、江戸幕府の統一貨幣はあるのだが、それとは別に各藩が藩札を発行流通させる。ユーロには国家の利害を越えようとする人間の知性を感じる。自分さえよければで行けば、戦争に至るという経験。正念場なのであろう。日本では地方の時代と言うが、地域が独立することと、TPPのような経済がすべてを越えて行くことは矛盾する。
経済の上昇場面では、ユーロの国を越えた理想論も通用する。粉飾決算を行った国家を、自国の国民の負担の上に救済できるかである。各国政府は国民の批判にさらされながら、この困難にむかわなければんらない。各国自らの経済の事で精一杯である、排他的な空気も広がってきているように見える。今週はその結論が出そうである。注目している。その一つの本音が、ユーロの為替レートに現われる。現時点で1ユーロ104.22円である。これが102円台まで何度か行ったが、またもどる。102円が底値。これは本当の評価より、30%は低く評価されている。いつか、130円を越える時代に戻るのだろと思っている。私予測をしても始まらないが、こういうことは投機を行う人と、傍観者とはまるで違う。だから、102円台に下がったら買ってみようと考えている。自分の中で悪い事をするような気分もあるが、あくまで身をもって知りたいと思う。