杉浦日向子さんのこと

   

こんな大災害が起きてしまうと、江戸時代のことがどうしても思い起こされる。江戸時代にも大きな津波もあったし、大火災が繰り返しあった。その都度日本は振り出しに戻された。今回の原発事故も、振り出しに戻るのであれば、一つのきっかけだと思う。災い転じて福となす。問題は政府がまるで頼りにならないということだろう。しかし、いつの時代も政府などたいして役には立たなかったはずだ。庶民はどこっこい生きてきたのだ。誰かにお願いして、何とかしてもらうということに、慣れてしまったのが、最近の日本だった。わが身を生きることが他人任せでなかった江戸時代。飢餓と農民一揆の時代と言われてきた時代が。むしろ、今より幸福な時代であったこと。江戸時代に戻る気になれば、何とかなる。

杉浦日向子さんの本を再読した。何度目でも面白い。隠居という言葉を使いだしたのも、杉浦さんの影響である。確か杉浦さんは漫画家としてスタートして、早々と30代で隠居してしまった。そして46歳で杉浦さん流に言えば、あの人は粋だった。とおさらばされてしまった。私が杉浦さんを知ったのは、すでに漫画家を引退して、隠居に成って、「お江戸でござる」に出演されていたからだ。江戸についてのウンチクを楽しそうに語っていた時だ。その頃、山北の山の中で暮らし始めていた。多分教師を辞めようか、辞めたかの頃だから、江戸の若隠居の考えに影響されただろう。江戸時代の金魚飼いには、毎日ボウフラを探しあるいて、一生終わった人さえいる。そう言う人が粋だったねぇ―といわれる世界。江戸は世界最大の都市であり。自給自足の農業地域である。というような話をテレビでしゃべっていた。まるで江戸時代を見てきたように話していた。

江戸時代というものを見て行くと、その豊かさと惨状が混在していている。惨状の方は学校教育でさんざん聞かされたから、豊かさの方に驚いた訳だ。拡大再生産しない社会。自給自足をとことん推し進めた時に、生産できる食料の量だけ人間が暮らしていることに成る。だから、増えすぎれば姥捨てとか、間引きとか、怖ろしいことが行われる。しかし、そのバランスさえ取れていれば、安定した豊かさが見つかる。盆栽、金魚、日本鶏。退屈文化の爛熟である。どうでもいいことである。どうでもいいことに熱中する。絵画でいえば浮世絵。桃山期の宗達光琳から思えば、随分衰退する訳だが。独特の価値の世界という意味では、一時代である。現代の文化貧困から思えば、はるかに深いと言わざる得ない。リアルという意味。現実をカメラで写したようなものを、現実と思うリアルさは目の貧困を表している。目というものが、猫と犬では違うように、目に映るという奥にある姿こそ、表すべき思想。

杉浦さんから、田中優子さん、石川英輔さん、と進んだのだが、実に面白い世界が広がった。人間それでもいいのか。裃を脱げたというか、建前を捨てられた。せっかく生まれてきたのだから、好きなことをやり切ってみよう。「杉浦日向子の江戸塾」という本は対談で読みやすい。鬱々とした気分が吹き飛ぶ。肩の荷が下りる。江戸学というものは、資本主義が行き詰まったときには、必ず役に立つ循環型のやり方の宝庫である。まず自分の足元を固める以外ないという、江戸庶民の発想の工夫こそ次の暮らしの明かりである。鶏でいえば、100万羽まとめて飼う経済性と、1家庭の生ごみ処理と、タンパク質の補給に飼われている合理性は、対抗できるはずだ。江戸時代の素晴らしい交配技術は、現代を越えているのだ。

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