京都送り火に越前高田の松

   

京都五山の送り火への思いと、被災地への思いが重なり、素晴らしい行事に成るはずであった。越前高田の松原の倒木の松は、京都市は結局のところ使用中止を決定した。放射能への科学的な認識不足が深くかかわっている。樹木の場合、表皮に放射能が存在し、放射能汚染の年度の年輪より、奥には入らないものである。これはチェルノブイリの調査結果とされている分析である。確かこのことは福島の林業と言う意味で、今の段階なら材として販売できるということを書いたことがある。越前高田の松材も同じことで、表皮や枝葉が放射能汚染されているのは、300キロ圏であれば、可能性は高い。表皮の測定結果は1キロ当たり、1130ベクレル。小田原でも焼却場の放射能汚染は、剪定枝の可能性が高い。いま、段ボールコンポストの測定をしているので、これと比較すれば実態は見えてくる。ごみの10%に満たない、剪定枝が焼却灰の放射能残留への影響の可能性は高い。そうしたことはもう分かっているのだから、表皮は剥がして、薪にするのが当然の配慮である。

ちょっとした配慮の積み重ねをすることが、放射能対策の基本である。稲藁の大失敗も同じことであった。羹に懲りてなますを吹く。堆肥の移動禁止指導にみられるように、判断力の喪失を表している。その判断力低下によって地域間の軋轢が生じたことは、残念でならない。川内村、宮路町、楢葉町、葛尾村、飯館村、波江町、南相馬市。と立ち入り禁止線に沿ってたどってみた。預かっている、犬や猫や鶏の、出所を見ておこうと思ったからだ。耕作されていない田んぼが、悲しい光景を作っていた。多くの田んぼは夏草のおい茂るままである。道路や家はそれほど壊れている様子ではない。一部地割れや、土砂崩れの痕跡はあるが、全体としては美しい阿武隈の山川が続く。何百年と続いたであろう日本の原風景。土は古い地層なのか、砂岩のようなもろい所が露出している所もあった。これだけなら、という辛い思いである。

漠原人村の満月祭を一眼だけでも見ようと、というか、マサイさんにお会いしたかった。漠原人村に入った頃の気分を聞いてみたかった。「その時はもう、村があったんだよ。若いから元気だよ。昔、30軒ぐらいの集落があったらしい。林業がまだ成り立っていたんだよ。来た頃はまだトロッコ道あったよ。」日本は中山間地の集落崩壊が進んでいる。限界を越えて放棄集落の時代に入っている。自給自足を目指す者には、良い時代に成ったものだ。無料で住める家さえ見つかるかもしれない。畑だって、田んぼだって、すぐにでもやれる時代である。こんな恵まれた条件の時代は日本の歴史始まって以来のことだろう。漠原人村にも太陽光発電があったが、今の時代どんな山奥でも、覚悟さえすれば自給自足は大丈夫である。私はこの20数年医療機関にかかったのは、2回のみである。自分で治すようにしていたら、病気にかからなくなった。病弱だから無理と考えるより、やってみたら健康になるということもある。

一期一会である。送り火はそうした思いの表現ではなかったのか。何が放射能だ。小賢しい知恵を捨てることだ。送り火のわずかな放射能で健康被害があると言うのは妄想のようなものだ。表皮を剥ぐくらいできるだろう。「放射能はどれほどわずかでも、健康に悪影響がある。」このような発言を良く聞くようになった。この考えはバランスが悪過ぎると思う。もう少し丁寧な対応が必要である。ラインを引くことが出来ないという考えは、科学の逃避に成る。生きると言うことは、あらゆるリスクの中に居ると言うことだ。リスクの程度を判断するのが、暮らしの知恵のようなものだ。暮らしをしてこなかった人は、こうした時対応法を失うのかもしれない。死ぬことを受け入れない現代人の病に繋がっている気がする。明日の朝目が覚めたら幸運だと感じる生き方。京都の送り火は燃えながら泣いているだろう。

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