原子力の平和利用論
終戦の日である。平和の催しも昨日の日曜日に多かった。今福島の事故で、戦時中のような思いを持っている。終戦の日に、何故被爆国日本が、原発大国になってしまったのかを考えてみたい。戦後の日本人の心理を深く反映しているのではないか。日本は軍事力、資源不足で敗れた。資源のない日本という島国が、(当時島国論が良くあった。)世界に負けないためには、(連合国を見返すためという心理があった)、科学技術しかない。特に、日本を敗戦に追いやった、原子力と言うものは、絶対的な力がある。(原子爆弾で敗れたという敗北感の裏返し)原子力エネルギーを経済利用すれば、何も無い日本でも世界に負けずにやってゆけるのではないか。原爆を落とされたが故に、その絶対的な力が繰り返し語られたからこそ、圧倒された原子力が、突然夢のエネルギーに位置づけられ、定着してしまったのではないだろうか。A級戦犯であった賀屋興宣氏が原子力の平和利用論を、正義の科学的手法として主張したことは、象徴的である。それが原子力が神話形成に役立つ。
敗戦により、日本精神のようなものが、軍国主義と同義的なものとしてひっくるめて悪いものとして否定された。日本人は統一のよりどころを失う。戻るべき原点を失う。例えば、ご先祖様に見守られているという意識を失う。科学主義の登場。科学的であることが、伝統とか、因習とか、民族性とか、過去の悪い日本人を否定して行く指針に成る。この科学主義が選んだものこそ、原子力の平和利用論につながったものではないか。今に成ってみれば、この悪夢のエネルギー原子力は、コントロール不能なものであった。科学的論理の上では、可能なものであっても、不完全な人間が管理下に置くと言うことは出来ないものであった。しかし、いまだ原子力への夢を捨てきれない人たちがいる。いまだに、負けてどうするという敗戦のトラウマを持っているのではないか。科学万能の幻影にすがっている人たちではないか。いまだ、原爆と言う日本のすべてを越えた先進科学が、日本を圧倒したのだから、原子力によってこそ、日本は勝てるのだという思い込みを捨てきれない。
不思議に産経新聞のような、一種の新日本主義を目指すような民族主義と結びついている。軍事力に変わるべき、物としてのよりどころを求める心理。力による国力バランス以外無いとする人には、原子力はいまだ見果てぬ夢なのだろう。アメリカによる、強制的な日本主義の否定が、日本人としての存立そのものをゆるがしたままその安定を失っている。心底日本のことを思う、国粋主義者こそ原子力否定に向かうべきにもかかわらず、不完全な原子力にすがりつこうという心理に陥る矛盾。国粋主義者がアメリカの属国的な、現在の日米安保を肯定するおかしさと心理的には似ている。日本と言う精神を賛美するにもかかわらず、日本の持つ本当の力量を直視しできない。敗北原因の原子力にすがりつこうと言う矛盾。この心理が必要以上な原子力依存へと偏向して行くことに成る。北朝鮮やイランが原子力にすがりつく心理と瓜2つである。
原子力の良心的平和利用論は存在しない。神話を形成しても構わない心理状態は、いかにも戦時中の天皇神話形成に似ている。原子力へに期待を膨らませた、見返してやる的な、余裕のない追い込まれた思い込みが反映する。今になれば、安全度を高めると言う、当たり前の検証が拒絶されている。非科学性と経済優先。勝利の為の正義の原子力平和利用論。本来なら、事故があれば暮らすことのできない地域を作り出す原子力が、安全性を深く追求できなかった要因は、軍事産業化していたからだろう。特攻隊的な発想に支えられている。原子力平和利用は、そもそもあり得ない逆説である。原子力によって勝利しようという競争心に支えられている。だからどれほど危険でも、崖っぷちを進むような、危険を冒してしまったのだ。江戸時代の農民や庶民や常民が暮らしの中に持った、安定した暮らしの、日本人。成長しない日本人。繰り返す事の中に平和を見る精神。ここに立ち戻り、立脚するしかない。