井伏鱒二の水彩画
井伏鱒二さんの文章が一番好きである。それは山椒魚を高校の教科書で読んで以来である。何でもないことが、何でもなく書かれていて、何度読んでも堪能する。文章の呼吸がまるで見事な話芸のようで、何度でも繰り返し読んでしまう。陸稲を送ると言う詩のような文章など、何度も書写した位の別格である。亡くなられてから井伏鱒二全集が筑摩書房から28巻が出版された。もちろん購入した。寝たきりになった時の楽しみだと思っている。そんな時間が来るかどうかは分からないが、そう思うだけでうれしくなる位である。あこがれの井伏鱒二氏が水彩画を大分描いている。それは、読んで知っていた。しかし、実物も写真も見たことが無かった。先日渋谷を歩いていた。理由があって出かけたのに、日にちが間違っていた。それで腹を立てながら歩いていると、古書店がある。大抵は入ってしまう。いくらか画集など置いてある。
「井伏鱒二画集」とあるではないか。思わず購入して、そばの喫茶店で眺め行ってしまった。唸った。素人の水彩画とは言えないが、絵描きの水彩画でもない。良いとか悪いとか判断が出来ないような絵である。「デッサンをやっている間は、殆んど釣りをしている時のような気持ちになることが出来る。ただ釣りと違って絵の場合は克己心が余計に必要である。」ああなるほど、何かが見えてくる気がする。この人は言葉が的確である。多くの絵描きに絵は、まず自分を殺そうにも、自分が無い人が大半である。だから自分の絵と言うもの自体が、めったにない。その人の絵だなと、思えた時には良かろうが悪かろうが、評価してしまう。もちろん、絵はその上でのことだろう。出てしまう自己と言うものを、抑制しようということらしい。しかも大げさでなく。ここが面白い。油絵よりやはり、水彩画面白い。水彩画と言うものが、本質に一直線であることが良く分かる。いわゆる文人画風のものもある。これはまるで詰まらない。編集が悪いのだろう。こういうものは残してはならない。
実は銀座に絵を見に行って、吐き気がしてしまい、渋谷に移動した。何故絵描きはこの震災の影響を受けないのだろう。絵を描くと言うことが、生きると言うことと全く連動していない。極楽トンボもいい加減にしてほしいと、怒りで気持ちが悪くなってしまった。人間の中でも絵描きほどひどい人種はめったに居ない。たちの悪い企業家と同じ様な人種なのだろう。そのうえ自己顕示欲だけが強くて、どうにもならない連中である。この時代の転換期に何も感じず相変わらずの絵を自慢げに描いて、恥ずかしさに気付かないのでは、話にもならない。絵画というジャンルが、すでに滅んだ世界であることが、改めて分かった。自分はこのあとどうするのだろう。絵を描くのだろうか。そう思いながら、とぼとぼと5か月が経とうとしている。
井伏鱒二氏の絵は、原発事故後でも通用する絵だ。黒い雨を書いた人の絵だ。実は井伏鱒二氏は若いころから絵描きに成る勉強をした人である。日本美術学校にも通ったし、60を過ぎて絵描きになろうと本気に画塾に通った。そして文学者として絵と言うものを真剣に考えていた。絵に対していわゆる絵描きより、認識が奥深い。絵がやらなければならないことに、直入しようとしている。人間が生きると言う、無残と言うか、矛盾と言うか、絶望のようなものを、越えた先の美。そう言うものを見ていて、自分と言う存在を消しながら、描こうとしている。やはり、絵と言うものは良しあしで見ても仕方がないものだと痛感する。絵以外の方法では、記録できないものが人間の中にはある。あると感ずる以上、記録しておくことも意味があるのか。