どんな国を目指すのか

   

結論から書けば、日本は自給型の国づくりを目指す。自給型とは言葉の通り、衣食住の基本的な生産品を自給できる国である。エネルギーも自給できる国である。江戸時代できていたことである。今ならもっと合理的な形で可能なはずだ。それが歴史から学ぶということだろう。幸い人口も減少してきた。この未曾有の大惨事を大転換の出発点にする。国民一人ひとりの自覚の上で、次の社会の形に向けて、議論を始めなければならない。年金でも、CO2の問題でも、今の社会の暮らしを維持するために、未来の人たちを犠牲にしている。その最たるものが、原発から出る死の灰である。その処理法すら分からないのに、今電気が安くできるはないものだろう。その論理を支えているのが、経済戦争に負けたらどうする。一番でなければ、経済競争に勝たなければ、そう追いまくられ続け、日本は破れたのだ。

「原発マフィア」経済産業省や電力会社のOBで造る原子力安全・保安院、資源エネルギー庁原子力立地・核燃料サイクル産業課、原子力発電環境整備機構、元「動燃」(動力炉・核燃料開発事業団)の核燃料サイクル開発機構、電力10社、原発ゼネコン(原発工事一切を請け負う大手の総合建設業者)、日本原子力学会。これらの頂点の機関として内閣府に原子力安全委員会。みんなで渡れば怖くないである。今回の事故で明らかになったことは、日本国民の安全とか、未来の暮らしとかいうものはすべて切り捨てて、利権構造の確立に躍起となっている集団の存在。今回の事故対応は、今更検証するほどもなく、原子力利権の防衛が先であったことが見える。日本は法事国家ではなく、犯罪を犯した国家である。チェルノブイリ事故当時のソビエト連邦より人権が軽視されている。今なお原子力犯罪の被害者が、福島には何十万人も存在し、放置されている。

衣食住のを支える基本産品、エネルギーを含めて自給できる国づくり。他国を搾取しないでも自立できる国づくり。TPPが進めば、強者有利な結果に成ることは、目に見えている。競争の公平原理は、強者の論理である。自由を隠れ蓑にした能力主義である。強いものは正当な競争を主張する。その原理に従う弱者には保護を与える。その方が経済合理性があるという論理づけ。どうしてもそこに至ってしまうのが資本主義。この20年の日本の変化を見れば、誰でも本当のところを体感していることだと思う。体感はしているが、それしか道が無いように思いこまされてきたのだと思う。東電のあのコマーシャルを思い出してほしい。温暖化防止という美名を掲げて、危険を見えなくした。一番でなければ、駄目だという経済の仕組み。勝ち抜かなければ日本に未来はない。これは戦時国家の国民洗脳そのままである。そんな発言を要領よくしている者が、出世し重宝されてきた。

すべては、この国が世界の経済戦争に敗北しそうな、不安感から来ている。それは戦後というより、維新以来の日本の列強に伍して、というような競争意識が出発からあったのだ。隣国の友人であるはずの、朝鮮や中国を遅れた国のように馬鹿にしてきた愚かさ。黄色人種のコンプレックスを抱えてしまった日本国。政府に洗脳された日本人。弱いがためにいじめをしてしまう心理。その黒船に破られた、鎖国国家という特殊性が、その後の競争心が大和魂とかいう美名。競争の論理から来る精神論に成り、ひたすら経済戦争に打ち勝つべく、公害もなんのその、原発をやらないで負けてしまえばどうなるのだ。この国の価値を経済で1番に成る事として頑張った。経済が大事なことではあるのは認める。しかし、それを支える心の豊かさ、おおらかさのない経済では、人間の劣化につながる。日本人の各分野での劣化は、今回の原発事故対応を見れば、今更ながら明らかである。

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