自粛と萎縮
「自粛はやめよう。」と誰かが言っている。喪に服す気持ちは尊重されるべきだが、自粛していては経済が衰退する。こういう論調が繰り返されている。別段自粛などしていないが、心が相当に委縮している。時限爆弾の上で、暮らしているのである。どうして浮かれていられようか。一年くらい静かに暮らすことは普通の神経である。自粛を止めようの掛け声の裏にある意識は、消費社会のという砂上の楼閣を再建しようということである。その幻想は捨てなくてはならない。消費するということは良くないことだ。当たり前の倫理観に戻るべきだ。出来る限り節約し、物を大切にして、無駄な消費をせず、もったいないで暮らしてゆく。テレビというものは、消費を美徳とする価値観の世界の先兵である。経済社会の広告窓口なのだ。テレビを支えている経済は、悪い言い方だが、だましても物を売ろうという、世界なのだ。
物に囲まれていないと安心できない暮らし。それは心の問題である。そうした飢餓的心に人間が洗脳され誘導されている。禅に置いては、本来無一物という。何も無く裸で生まれ、死ぬことでまた土に帰るこころ。比較するな。何も無い安心。いらないものをはぎ取って行くこと。日本人の暮らしは、繰り返し何も無き所に戻る。それを受け入れる心がむしろ、無尽蔵に大きい。消え去ってしまえば、暮らしの痕跡すら消されてゆく、繰り返しの無常感。その無常の中で自分の命を見つめて行くこと。物が豊かにあれば、安心できるのか。確かに明日のお米が無ければ、安心できない。人間の当然の心である。その分限をどこに置くかである。食べ物があれば、住む場所が必要。その最小限の暮らしに、どこまで近づいて行けるかが、安心の暮らしへの方向だと思う。物に依存した気持ちには際限がない。三匹の子豚の寓話のように、藁の家ではまずいことに成る。
三匹の子豚は家など無く、自由にイノシシとして走り回っていた時が一番幸せだったに違いない。それを冷暖房付きの家畜舎で三カ月快適に暮らして、肉に成る。われわれ人間も同じである。オール電化住宅に暮らして、快適生活をしてみたとして、それだけで何が幸せであろうか。薪でふろを焚くより、面白い暮らしとは私には思えない。人間にとって一番幸せな暮らしがどんなものであるか。自分の肌で感じる感覚で探してみるべきではないか。与えられた煉瓦の家の暮らしより、自分で作り上げた藁の家の方が、向いている人もいるのかもしれない。物への執着を取り払って見ると、色々が違って見えるものである。今起きている、消費経済の社会は、大震災など無くとも崩壊する寸前だった。テレビ洗脳をどう乗り越えるか。
人間の心は、こうした事態で委縮するのが、当たり前のことだ。そのように人間は出来ている。それを経済のために無理に気持ちを奮い立たせて、消費生活に戻れは、少し心ないではないか。日本は経済大国にへの戦いに敗れたのだ。明治政府以来の富国強兵政策の挫折である。その挫折を早く認めて、日本人らしい暮らしを、永続性のある暮らしを模索しなければならない。江戸時代には出来ていたことだ。江戸時代の材料を洗い直し、その問題点を改善する。自由・平等・平和な日本人の暮らしを模索する。その転換点にしなければならない。そのことは世界の人々からも、必ず評価されることである。経済だけが重要ではない。このままでは地球が崩壊してしまう。そうした危機感は世界中にある。人類共通の課題だ。ここで日本が方向転換し、永続性のある自立型の経済を目指す事は、必ず評価されることである。