ユッケ食中毒
どうもユッケというものを食べて、4人の方が亡くなられた。お子さんも箸を付けた程度で、亡くなられたという。可哀想でならない。生肉を食べるということは、私はしない。今回の食中毒で気付かされたのは、生肉を食べる習慣が広がってきていたことだ。食習慣の変化の速さには驚くばかりである。牛鍋ですら、ためらいがちに食べた明治時代から考えても、日本人の食生活の変化は驚くほど大きく、早い。生肉が一番おいしいから食べたい。こういう気持ちの変化がすごい。肉の生食は不気味で思い切った覚悟が無いと出来ない。吸血鬼にでもなるようである。獣肉というものはとてもリスクがある。人間の遺伝子的に近ければ近いほど危険である。共通伝染病だってある。その意味でも仏教のいうところ菜食ということは、理にかなっている。
本来人間は何でも食べたに違いない。人類はいつも餓えていたはずだ。食べれる物は何でも食べて生き延びてきた。可能であるなら多分獣食のほうが、菜食より好まれていたのではないだろうか。縄文の遺物からそういう推測が出来るということを読んだことがある。獣がふんだんには食べられないので、だんだんに菜食に移行したのではないだろうか。その過程で、集団的戒律として、獣食禁止が出てきた気がする。多分宗教的戒律に成る前段階があったのではないか。人間の知恵の蓄積として、菜食というものが選択されてゆく。このことはおろそかに出来ないものではないかと思う。肉の方がおいしいから、美味しいものを食べたい。この選択はいかにも現代的である。一つの贅沢として、肉食が存在する。贅沢であった肉食を、日常にしたいというのが現代社会である。そして、肉食も牛鍋から、焼肉と変化して、ついに生食に至る。抑止するものが無ければ、当然の成り行きでこの流れは、食中毒ぐらいで収まるものではない。それが食文化というもので、ふぐの肝のようなものだ。
今回は大腸菌の食中毒ということだ。O157以来様々な大腸菌の種類が登場するが、今度はO111も同じ仲間らしい。菌の毒性が強くなっているのか、人間が弱くなっているのか、特定が出来るようになったためなのか、そのすべてなのか分からないが、ともかく保育園などでの大腸菌集団感染は珍しくなくなっている。感染経路の特定ということが、何より重要であるが、今回の場合は何故だかすでに原因はユッケであるとされている。神奈川県の同じ系列の焼き肉店でも集団食中毒があるらしいから、その菌の遺伝子を調べれば、さらに原因ははっきりするだろう。感染の経路は、何の先入観も無く、純粋に科学的にすらべる必要がある。あのカイワレ大根の時も結局は感染経路は不明である。これは、鳥インフルエンザでも口蹄疫でも同じで、何か隠して置きたいという意思が働いているかのようである。原発事故隠しも同様である。
焼き肉チェーンの若い社長が、生肉食の禁止を叫んでいた。逆切れということらしい。この人が今語るべき話ではないだろう。しかし、禁止して欲しいと思う。生肉まで食べる必要が無い。生肉に対する法律の不備が言われる。食べるにしても火を通すのは当たり前のことだと法律も思っていたのだろう。食は自己責任である。魚でもそうである。信頼の無い店では、生ものなど食べないようにしたい。生卵もそうである。割ってみて怪しいものを食べるなど、もっての外である。その判断が外食の場合しにくい。だから、外食では火を入れたものを食べればいい。これならという時にのみ、生卵は食べれる生モノである。日本人が体質的に対応力が減ってきていると考えておくべきだろう。韓国で大丈夫でも日本ではだめということがある。しつこいようだが、生モノには気おつけることだ。