マスコミの終焉

   

福島原発事故では、マスコミの力が消滅したことがみえてきた。大事な判断をする際、マスコミが全く役に立たないことが分かった。これはこの地に暮らすものとして、幸せなことなのか、不幸なことなのか。ジャスミン革命の意味がやっと体感できた。枝野氏はとても頭脳明晰で、誠意ある対応はされていると思う。ただし官房長官としての役割を、充分果たしているとは言えない。今になって初期の情報の一部が漏れ出て来ると、立ち上がり時点での政府見解は、すべてを話していなかったことは確かである。最初の時点から、この事故は、ほぼチェルノブイリ事故と同等のものであったと言わざる得ない。その抱えたリスクは現状でもそれ以上の事故につながる可能性を持ったものである。その正しい判断が出来なかったのか、虚偽の会見を行って居たのか。4レベルの事故としていた。国民の多くは自分で情報を集めた。政府の発表が全く信用できないと感じたからだろう。では、テレビやマスコミ報道はどの程度真実を伝えたか。私の印象では、政府発表を垂れ流しただけに見えた。

「国民をパニックにしてはならない。」これが錦の御旗のようであった。そして始まったのが、度重なる転戦である。その時点でマスコミ報道を信頼する人は、どんどん減少していった。海外の報道の方が信頼できるということで、ネットを通じて、より信頼できる情報探しが始まった。海外の情報と、日本のマスコミ情報のずれに、ますます日本の報道は、自らの発信力を失っていると感じた。何故だろう。一人の人間としてはとても有能な人がマスコミに居ることを知っている。何故彼等は、発信できないのか。テレビ報道を信頼できなくなったときに、何かが起こるか。私の周辺でも六家族の人が、この地を離れ疎開をした。私自身は小田原が危険だとは考えていない。小田原が危ないという意味では、現時点でも浜岡原発の直下型地震である。この考えも、マスコミとも、政府発表とは異なる。

政府が信頼できなくなった時、学問の世界はどうだったか。今回は科学者というものが、世間から御用学者と呼ばれるようになった。学問の世界が異端審問のように見えてきた。ガリレオの悲しみ。放射能の安全性をどこまで分かりやすく伝えられるかが、科学者の役割のようなものになってしまった。国民を不安にさせない。これは学問とはかけ離れた間違った考え方だ。学問は客観性こそ重要である。気象学会に至っては、各自の研究を自由に発表してはならないとした。新野宏理事長(東京大教授)名で「学会の関係者が 不確実性を伴う情報を提供することは、徒(いたずら)に国の防災対策に関する情報を混乱させる」「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」などと書かれている。この感覚こそ「原子力村の世界」の出来事である。科学は、学問はどこまでも自由でなければならない。様々な研究が並列されることで、初めて信頼性が深まる。ここに産学協同の弊害が直接的に現れた事件だ。

ツイッターやインターネットに影響される社会。マスコミの終焉。政府の弱体化。学問の硬直化。これは七〇年に起きたことの結論のようだ。あの時、頬かむりした現実が、やっぱり蘇ってきた。私たち団塊世代の責任である。管総理はその象徴である。学生運動家から、市民運動家へ、そして野党政治家に、ついに総理大臣になった。この変節の人生こそ我らの醜い姿である。天に唾した所で、もう駄目だということはわかっている。暮らしをどのように立て直すかである。若い人たちが自由に生き方を求められるように、出来ることを探してゆく。農の会で起こっている、ささやかなものではあるが、違う世界を求める気持ちは未来につながると思う。このさなかも農の会では種まきが続いている。種まきも出来ない福島の状況では、本気で自分の食べるお米は作らないとならないだろう。

 - Peace Cafe