英語を公用語とする企業
英語を公用語にする企業が出てきた。ユニクロ、日産、楽天である。日本人であることをどのように考えてのことなのか。日本人としては情けないことである。そこまでして企業利益を追求したいのか、と思うと哀れでもある。日本という文化の敗北である。確かにグローバル企業を目指すなら英語公用語化はあたり前のことであろう。グローバル企業になるというのは、ある特定の国を特別扱いしないで、あらゆる機会を求めていく。儲かるところなら、日本も外国も違いはない。純粋にビジネスの観点からあらゆる国を見て、一番安いこところでモノを作って、一番高く売れるところで売る。儲けるためには現地の目先の利く人材を雇用する。もう日本語でやっていたのでは無理である。そんな風に考えてのことだろう、勝手にやってもらうしかない。日本という国として、それが良いのかということだ。企業としても本当にそれが良いのかということになる。
企業は利益を追求する。当たり前のことではあるが、利益にも目先の利益もあれば、100年先の利益もある。英語公用語化は目先の利益に見える。ビジネスということはわからないが、文化に置いては、深くローカルのものがインターナショナルである。クールジャパン現象は12世紀の鳥獣戯画に始まる、絵巻物の伝統に根差している。江戸時代に様々に展開された、浮世絵、戯画、戯作が日本人のイメージの源泉となり、蘇って現代化した文化。「新しいものが作り出されるには、前近代的なもが否定的媒介となる。」といったのは花田清輝氏。日本語で発想して行くオリジナリティーは、企業のあらゆる側面に発揮されているはずである。日本企業の風土である。滅私奉公するという否定的意味だけでなく。阿吽の呼吸で同志的確認が腑に落ちる、ということはないのだろうか。もうそういうものはいらないというのでは、目先のことではないのか。目ざとい企業は日本人を見限ったということか。
もともと日本人は、一方で伝統文化を保持しながら、外来文化を柔軟に受け入れてきた。縄文以来の伝統的な自然と一体化するような宗教観を、外来文化であった仏教と上手く融合させることに成功してきた。日本人の自然観を変えることなく、仏教思想を日本的文化に融合させてしまった。廃仏毀釈等原理主義が台頭する都度、日本的ともいえる巧みなかわしかたで、新しい融合法を見出し生き残る。英語公用語は一種のビジネス原理主義である。利益を上げるという原理の為に、何もかもを捨ててしまう。この非日本的な対応は、長い目で見れば大きな失敗に陥ることであろう。今はない新しい価値を発見するという意欲。まだ見えない何かを掘り起こす能力。そういうことは一人ではできない。切磋琢磨し、協力してこそ、次の段階に上昇出来る。それをもう日本人に期待しない企業が現れた。
それは幼児教育にまで、英語を取り入れ、初等教育段階でも英語を学校教育で教えようとする。教育はビジネスの為に行うのではない。全人的人格の完成を目指して行う。要領の良い、都合の良い人間を育成するために行われるものではない。明治政府には日本語を廃止して、英語にしてしまおうという、恐るべき思想があったらしい。美術授業では色彩をJAS基準で指導するというものがある。その方が工場で都合がいいというのだ。色彩は無限である。企業の都合で出来ている訳ではない。企業というものが日本を捨てて行くのは構わない。しかし、日本という名前を都合の良い時だけ名乗ることは止めてもらいたい。利潤の為に日本を捨てた企業。こういうことを明確にしてもらいたい。そうすれば法人税の問題ももう少し違って見える。