内定率過去最低

   

博報堂調べの4000人の調査で、良い大学を判断する1番が就職の面倒見が良いということらしい。大学もビジネススクール化している。大学は学問をするところである。くだらない授業はさぼってはいたが、学問はしたつもりだ。教育史に興味があった。江戸時代の藩教育と寺子屋や塾のこと、明治時代の教育制度が出来上がる過程。そして大正自由教育。戦後の民主主義教育。教育の変化を自分なりに学んだ。何か具体的に役に立つということはないが、そこが学問の良いところだ。大学の卒業生の就職内定率が、70%を割っていると報道されている。仕事が無い訳ではない。選んでいるために起きていることらしい。若者の内向き傾向ということが言われる。と言っても、就職が人生の結論のように見える時代であれば、当然の傾向である。自分の居る所を求めて、ある職種ある企業に就職したいと言う人は、大したものである。

大学を卒業するころを思い出してみると、就職する気持ちは全くなかった。心の混沌にさいなまれて、思いがまとまらない。就職する意味が自覚できなかった。どこで野垂れ死にをするにしても、行くところまで行くしかないというような、馬鹿げた気持ちだった。その気持ちのまま、たいして変わらず、ここまで来た。夢をあきらめない。というような歌に成るような感じよいものではなく。ひきつったみっともないものだったように思う。日本にいることでは、無難過ぎてもやもやが収まらない感じで、ほとんど当てもなく、強引にナンシ―と金沢の姉妹都市関係を頼りに、フランスに行くことにした。なにしろフランス語も全く分からないし、勉強もしたことが無いのだから、ひどいものである。何とかなると思っていたし、まあ何とかなった。生きる切実なところに存在を置いて置きたかった。だから、大学院に行くとか、大学に留年して残るというようなことも、違う感じがしていた。

理学部の生物学科の先生で、イトヨの研究をされている方がおられた。魚類の分類をされていた。消えて行くタナゴのことなど良く話されていた。一番世の中に役に立たない学問だから、分類学を選んだと言われていた。実学否定である。本当は、赤い魚類とか、緑の魚科という分類でもいい。もっともらしくやっているのが分類の学問だ。と言われていた。学者というか、学問というものは偉いもんだと感心した。頭がもう少し整理されていれば学者に成りたかった。役に立たないことを本願とする学者である。これは「人間の為の科学とは何か。」に反するように見えて、実は学問の本質だと思っている。真理の探究とは、実学とは繋がらないこともある。インフルエンザがなければ、渡り鳥の生態の研究は人間の暮らしにすぐにはつながらない。実利的に企業が今求めることを、大学が研究するのでは、就職の大学に成ってしまう。

安定して、楽に暮らしてゆく。その為の学歴とかいうのではつまらない。生きて行くことはもっと面白いものだ。何ともならない日々、絵描きを職業にしようともがいていた。結局駄目だった訳だが、それはそれで生きていた。今だって別に何も変わらない。絵が描けるということと職業とは違うことに気がついた。絵を売るなら、卵を売る方がまともだと思うようになった。食べるものさえあれば、何とかなると思って、自給自足に成って行った。そういうことは収入とか、財産とかとは何の関係もない。やはり大学の時に教えていただいた、出雲路暢良先生のことばを思い出す。「日々生きるということは、苦しみに直面することだ。苦しみに気がつかないということは極楽トンボにすぎない。苦しいということから逃げないことだ。」こういう先生にお会いできる大学というもののありがたさ。

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