水土の研究9 肥料の自給
自然農法ではいわゆる肥料はいらないという考えが言われる。それは、土壌からの農作物の収穫が、収奪が進んで、一つの要素が限界点を越え足りなくなるまでの、一定期間のことではないか。それが100年とかいう時間保たれることはあるかもしえないが、永遠という訳にはいかない。作物を収穫する農業では、肥料はゆるぎなく必要である。自然の成り立ちを良く考えて見れば、当たり前である。1反の畑から、1トンの収穫物を取り出すとすれば、それに見合うものが施肥されなければならない。その場で太陽と水の力で生み出され、再生できるものもあるだろう。微量とはいえ作物と一緒に持ち出されてしまうものもある。自然農法では山の自然林を例えることが多い。それは持ち出さない循環である。農業では大量の収穫物が持ちだされる。特に微量でも必要なもののバランスはいつか崩れる。土壌はある一つの要素が不足すると、他のものが十分にあったとしても作物は健全な成長をしない状態に成る。
具体的には微量要素やミネラル欠乏などから、病害虫の発生などににつながる。こうしたことが起きるのは、10年単位のことで、場合によっては100年単位と考えなくてはならない。土壌を育てるとは、常に土壌に過不足無く、持ちだしたものを加えて行く必要があるのは、循環ということを当たり前にとらえて見れば、行き付く。農業を循環の輪に、大きな波風が無いように織り込んで行く。里地里山の手入れの思想と同じことである。土壌は人間の一代のものではない。農業を行うということは、100年策の土壌を作り出す。未来への仕事でもある。それがご先祖を敬う生き方を生み出したのだろう。畑らしい土壌を作るだけでも、10年はかかる。常に未来を見据えて行わなくてはならないのが農業である。あえてここで書くなら、プランテーション農業が略奪農業であり、土壌を育む思想の欠落から、永続できないことは時代が証明しつつある。
一方に生ごみを焼却処分してしまうことで、食べ物の世界の循環が途切れさせてはならない。食べ物であったものは、できる限り農地に戻さなくてはならない。食品廃棄物はまず、家畜の飼料に使う。そしてその家畜の糞尿を畑に戻してゆく。家畜の飼料に出来ないものは、堆肥にする。堆肥として畑に戻す。この循環を考えても、食べ物は遠くから移動させないことが重要である。食べ物が地場であるということは、その地のものを食べ、その地にすべてを戻すということである。人間の糞尿も当然その地に戻すべきものである。この大きな巡りを滞らせたことは、都市というものだ。都市というものは日本の水土を崩壊させるものであった。江戸百万の人口を支えるために、どれほどの無駄が生じたことか。現代の状況はすでに崩壊的である。食べ物を移動させないと同時に、人間や家畜の排せつ物も移動させないで戻す。その土地で循環させる。
もしその土地で出来たすべての農産物を持ちださず、自らの排せつ物を含めその肉体も、すべてを農地にもどすなら、あらゆる農地が必要とする要素が不足することは起こらない。この時水と太陽の光が、土壌を育てる役割をしている。多分江戸時代は、生々しくそういうことまで考えて、人間の暮らしや、集落というものが出来上がっていた。食べ物は移動しない、地産地消の考え方は、奥行きが深い。持ち込まず、持ちださずを考えた時。世界から持ち込まれる大量の食品が日本の水土を歪めてゆく。ひるがえって、足元の田んぼでは、土壌は水によって育まれる。山が豊かであれば、また川が清流であれば、石清水があるのであれば、半永久的に欠乏するものはない。畑の場合は、落ち葉や稲藁や青草を家畜小屋にれて、その排せつ物と混合したい肥化したものを、入れ続ける必要がある。