冬至来る

   

12月もさすがに2週目に入って寒さが増してきた。寒さという意味では、まだこれら強まる訳だが、笹村農鶏園ではこの22日が一年の締めくくりの日である。冬至は特別な日だ。養鶏をやっていると、そういうことになる。今日からは一日一日陽が伸びる。産卵も、この時期が底になる。この時期をしのぎきればという思いがある。鶏は不思議な生き物で、まさに太陽の子である。天岩戸の時代から、新しい時を切り開く生き物であった。山北に暮らしていたころ、確実に1時間おきにときの声を上げる雄鶏がいた。ああ2時だな、と始まって、4時の声を聞くと起きる。真っ暗闇で鳴いているのだから、朝を遠くに感じて鳴く。鶏にとっては日照の短いことほど堪えがたいことは無い。いかにも辛そうにとさかの色もくすんでくる。寒さもあるだろうが、太陽が恋しいということが良く分かる。彼ららは夏でも日向で寝ていたい動物なのだ。農業をやるものは太陽を見つめながらということになる。

冬至にはカボチャを食べて、ゆず湯に入る。これだけはやりたい。思い切ってかぼちゃのほうとうでも作ろうとおもう。子供の頃は、小豆とかぼちゃを煮た。あんこでかぼちゃを煮たような不思議な食べ物を作ってくれた。丈夫になるから食べろと毎年言われていた。虚弱な子供だったからだろう。北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日。太陽が最も弱まる日である。かぼちゃだから、江戸時代も末に出来た習慣であろうか。中国や日本では、冬至は太陽の力が一番弱まった日であり、この日を境に再び力が甦ってくる。陰が極まり再び陽にかえる日という意味から「一陽来復」。日本かぼちゃは、16世紀中頃ポルトガル船によってカンボジアからもたらされ、「かぼちゃ」の名は、このときの伝来先に由来している。中風(脳卒中)や風邪を引かないとか、金運を祈願する意味がある。真夏に出来る、南からの伝来の食べ物でありながら、冬至まで保存が出来るということが、農作物としては実に有難いものだ。冬至の日にご先祖に感謝のお供えした。保存のかぼちゃがこの日まであるのは、幸せな農家だと実感する。我が家にはまだ6個ほどある。

農家にとって、この日からが新しい年の耕作が始まる。農家は太陽とともに暮らしている。照っては日照り。雨が降っては作業が出来ない。太陽の呼吸に合わせるように一年を暮らして来る。この季節は夕暮れの速さに迫られながら、農作業を終わる。朝は日の出を待ちわびながらの作業となる。冬至に来てほっと出来る感覚は、乗り越えたという実感であろう。新年という実感がむしろ冬至に宿っている。寒さはこれからの方が厳しいに違いない。極寒の中でも今日よりも明日の方が良くなって行く、という期待感がこもってくる。鶏も、作物も、そのことを実感させてくれる。来年の農作業の希望が膨らんでゆく。今年も出来なかったあれこれが、思い出される。来年こその農業は、一陽来復に託すことになる。出来ないことの積み重ねが、生きている日々のようだ。出来たことの喜びより、出来なかったことの残念が溜まって行く。それでもという思いがこの日にはある。

禅寺では、日の出と夕暮れに坐禅を組む。この時間が良い時間とされている。座るに相応しい時間である。空けて来る明るさとともに、また、暮れて行く日差しとともに、坐禅を組む。坐禅はただ座るという意味のほか何もないと、思うようになった。何かの為に何かをするのでないということ。畑に種をまくということは、収穫物を得たいがためである。そうでないというのだ。確かにやっているとそれだけでない。出来なかった残念も、実は無くなってゆく。「収穫を問わず。」は最善を尽くすということ。最善を尽くせば、残念もない。人間の生死に遡れば、有意の行為の無益さ。冬至なので、ついつい余計なことを考えてしまった。いつものことだが理屈を捨てることも来年の課題であろう。かぼちゃのほうとうを食べて、ご先祖のありがたさを今日一日思い出している日だ。

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