ウエムラさんのこと

   

北海道に行ったのはウエムラさんと会いたかったからである。一度は会っておかないとならなかった。20代のフランスで、とことん語り合った関係である。話すことで笹村出という人間が出来たのだと思う。それから35年たった今、何がどうだったのか確かめる必要があった。だから、会ってから別れるまで、30時間話し続けて別れた。昔も会えば、そうだった。ナンシーには色々な不思議な日本人が10人ほどいて、数学のナンシー大学教授は頭脳流出と言われるぐらいの、そういう有能な方から怪しげな私のような人間まで、それはなかなか深い交流があった。金沢の学生時代の交流とは、また違った、身を削りながらの痛いような付き合いだった。根無し草の不安定な状態で、生きる道を模索していた時代。ナンシーは演劇祭のある街で、演劇・映画館系の人が3人居た。また、絵を描くとか、写真を撮るとかいうさらに怪しげな人間が3人居て、ナンシーの美術大学に所属していた。私はその一人ということだった。

絵描きと呼ばれていた宮本さんは、ずいぶん前に亡くなられた。もう一度話してみたかったが、残念なことをした。一度、二紀会の受賞展で東京に見えたときにお会いしたのが最後になった。そのときはすでに二紀会の絵ではなく、ビックリするような前衛的な絵になっていた。何で二紀でへんてこりんの絵が受賞したのかと聞いたら、受賞した絵は違う。もう二紀には出さないといわれていた。先に戻った宮本さんは、日本での職は必ず自分が世話をしてやるから、心配せず、充分勉強したいだけしろ。こう言う熱い手紙をくれたことがあった。そういう気持ちが繋がっているような付き合いが、ナンシーで存在した。ウエムラさんは写真を撮っていた。ナンシーの美術学校には、3人が所属していたことになる。当然だけど、学校で何かを学ぶと言うより、それぞれ自分が何を描くのかを、考えていた。少し共通の意味では、よりナショナルなものが、インターナショナルである。というような事だった。

ウエムラさんは北海道に戻られて、どうされていたのかも良く知らない。それもどうでも言いといえば良いのだが、自分がどのように絵を描いてきたのかを、話したて見たかった。いや、言葉で話すという訳でもなく、確認しておきたかった何かがあった。須田剋太の美術館を一緒に見に行った。これはすごい美術館である。出会いというか、須田剋太を見に行ったということが、ある意味回答のようなものだった。絵はいらない時代になったと思っていたが、本当の絵なら、どんな時代でも、やはり必要なものだ。そう言う事が確認できた。やはり絵は個人的なものであってはならない。

何を話したかと言えば、飼っている柴犬の話。新得の協働学舎の話。クマザサの話。畑の話。風景の話。自給の話。そして絵の話。もう、二か月も経つ訳だが、会いに行ってつくづく良かった。会って話が出来るように生きてきた、そう言いきるのも忸怩たるものはあるが、そんなことまで含めて話せたことは良かった。結局、大学を出てフランスに行って、東京で暮らすようになって、そして、山北に移り。小田原に移った。山梨で生まれ、東京、金沢、フランス、違う場所の東京が12年。山北の暮らしが13年。小田原の暮らしが11年。都合61年。このあと10年くらい、仕事が出来る時間があればありがたい。秋の水彩人展の絵を描き始めているが、今描く絵は、自分のすべてなのだと思う。結論なのだと。先日金沢では、遺言を書けるかと、Mさんに言われた。結局、遺言を絵にしているようなものだ。

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