アマチアリズム
普通はアマチアリズムは、プロスポーツに対してつかわれる。今はオリンピックでさえ、失われたアマチア精神のことに違いない。崇高なる目的で金を稼ごうは、おかしいだろう。オリンピックにそういう時代があったことすら、忘れられかけている。金儲けは倫理的に正しい。が勝利した時代。私がアマチアリズムについて、聞いたのは大学の美術部のことだ。当時の部長であった。般若氏のアマチアリズム芸術論である。それで卒業してから、だいぶ経ってから、お尋ねしてこの考えを話したら、そんなこと言ったっけ、などととぼけられてしまった。この考えには強く影響されたので、忘れる訳がない。芸術で食べて行こうというような、精神がそもそもおかしい。芸術が収入源になる訳がない。儲かるような芸術を考えること自体がおかしい。もし本当に芸術を志すなら、生活のことなど一切忘れて、ただただ打ち込むしかない。日本の美術がふすま芸術になり下がっているのは、美術と芸術の違いに気づかないからだ。般若さんもやはり、岡本太郎氏の影響をうけていたのだろう。
若かったこともあって、すっかり真に受けたもんだから、アマチア主義を標榜した。そして、今でもそういうことを引きずっている。芸術作品は商品ではない。まあ結果的にそれを認めざる得ないように、売れない画家として生きてきた訳だが。やせ我慢の柱に、「素人の大切さ、有難さが」据えてある。少なくとも売れるからいい作品とか、売れないからダメとかは芸術にはない。そんなことは芸術とは、正比例も反比例もない。次元が違うと信じている。芸術とは一般化するとは限らない。特化するとも限らない。ごくごく個人の内内で当たり前に過ぎ去ることだってある。ある人の芸術が、私だけに決定的であって、他には誰一人興味も持たれないということだってありうるのが芸術。芸術は個人の表現である。個人と個人の関係に止まることがあったとしても、価値が低い訳でもない。指をさす芸術。対話する芸術。ある人の真実の表現であること。そのことだけが重要なのだ。
だからここでの素人主義は、クーベルタン男爵のように崇高でもないし、世間に掲げるようなものでもない。ごく内輪の考え方である。私は言い換えで、隠居仕事である。と主張してきた。肩から力が抜けるからである。似てはいるが世捨て人の仕事でもない。一応社会的役割は果たした上でのことなので、社会や人様にご迷惑はかけませんので、ご容赦下さいということである。こう言うと、大抵の芸術にかぶれた人は、馬鹿にするなと怒る。自分のやっていることに価値がる仕事だと勘違いしている人が、あまりに多いことか。自分で価値あると思えば終わりであるのが芸術。中には社会変革のために、絵画を描く。音楽を作る。小説を書く。力みきった人がいる。そういう人の仕事が効果をあげた例を見ない。そういうのもふすま作りと何も変わりがないから、建物が変われば、建てつけが悪いことになる。
作る人が面白がっていないようなものはまずだめだ。面白いというのも、段階があって、本当に面白いというのは、未知への挑戦である。前回の延長のような、弱い精神では芸術にならない。ここが素人主義のいいところだ。誰にも期待されていないし、誰に頼まれる訳でもない。自分がやりたい方角に向って、ただただやればいいだけだ。前のことなどすっかり忘れて、どこの誰だかもわからないような作品を目指せばいい。面白いぞというアンテナに従って、とことん進めばいい。間違っても評価をされたいなどという、卑しい心を捨てることだ。もちろん自戒である。何故こんな当たり前なことを、今更書いたかと言えば、金沢で般若さんの隣で酒を飲んだからだ。それで、今度の水彩人の作品を思い出したのだ。素人の絵をかくぞ。