誕生日に際して
61歳の誕生日である。今更おめでたいことも無いが、しみじみ有難いことである。還暦後のおまけの1年が経過した。正直、生まれてこの方一番充実した一年であったのかもしれない。義務的なことはやめたので、やっていることはやりたいことだけに絞っている、建前。絞ったら、やるべきことがむしろ拡大した。たとえば、水彩連盟は義務的な面でかかわっていた。除名されたこともあり、辞めた。義務的などうでもいいことを切り捨てる機会であった。そうなると、むしろ水彩人の方に力が入る事になった。北海道展があり、11月には銀座での展覧会である。これはちょっと本気で描こうという気になっている。本気でというのは、自分の意思を表明する絵を描こうという気になっている。やりたいことをやりたいようにやるというのは、大変なことになる。自分というものが日々試されているということになる。
田んぼもそういう気持ちでやっている。当たり前にやっている訳だが、随分目標に近づいた。自給の農業が具体化してきた。自給自足と言うと、農家を目指す人間には評判が悪い。それは職業絵描きを目指す人間と、趣味の画家との違いのような意識差がある。趣味の農業だからこそ、本質に向かえる。無農薬とか、自然農とか、実験的農業。経営上とか、生活があるから、という様々ないい訳がない。家庭菜園で、農薬・化学肥料を使うとしたら、それは自分の志向や考え方である。グループ田んぼがあちこちにあって、とてもレベルの高い田んぼとなっている。市民がやるからこそ、立派な田んぼでなければならない。農の会の田んぼは、それぞれに誇りの持てる状態になってきている。ここがとても大事であり、難しいところだ。それは、大豆の会も、お茶の会もそうで、立派な収量を上げられるようになった。この一年はそうしたことが確立してきたと言える。
この先1年の目標としては、生ごみ(意気込み)プロジェクトを軌道に乗せることである。市民参加の市政の具体的な形を、具現化したい。地域に暮らしてゆくということが、これからの時代どのように行政とかかわることになるのか、その方向を模索したい。市民がいて、地域のお店があって、行政がいる。この3者の連携が、有機的に繋がること。それぞれの役割が、具体的な活動を通して見つけられること。それは農の会の野菜もそうである。いままでは、地元の家庭に直接宅配するという形に限定されてきた。これを、店舗を通して販売する道のしたい。それは普通のことではあるはずが、小田原では特別なことになっている。地域のお米を食べたいと考えても、地域のお米はめったに販売されていない。せめて給食ぐらいは、地域のお米を食べるように是非ともなってほしい。生ごみプロジェクトは実はそういう、暮らしの隅々に届くことになると考えている。
いよいよ自分の絵画というものに、迫らなければならない。自分という人間のレベルが試されている。当たり前にそういう年齢である。今終われば、この程度かである。悪くは無いがどうということも無い絵である。自分を伝えるということが問われる。人に受け入れられるかでなく、人にどう迫れるか。絵画という手段で、人間の生き方を伝える事が出来るか。こういうことが課題になってきている。絵を描くための時間が70までの10年残っている気がしていたが、その一年が過ぎた。次の一年に、どこまで歩めるのか。幸運にもまだぼけてもいないし、体力もそうは落ちていない。余計なものが落ちてきたという実感はあるから、もっとはぎ取って、やれるところまでやる。