そらやさんのかぼちゃとひだまり屋さんの小豆

   

そらやさんからかぼちゃを分けて頂いた。先日朝の集荷の時に焼いたかぼちゃを試食させていただいた。これが絶品である。その焼かぼちゃは出荷のための見本で、冗談で非常事態宣言と言っている、端境期の野菜不足の為に、そらやさんがみんなに出してくれたかぼちゃである。あまりの美味しさにあえて、端境期対策にもかかわらず分けて頂いた。それは、沢山の種が付いていたからだ。自農の品種だと言う。『雪常念』と言う自農センターで交配して作出F1品種のようだ。この種を蒔いて見ようと思っている。多分ばらつきは出るのだろうが、面白いものが出来る気がする。それがその内、我が家の固定種になるやも知れず。これが自家用農場の楽しさである。販売目的であれば、間違って美味しくないかぼちゃを売るわけにはいかない。我が家では美味しくなければ、鶏の餌になるだけである。

去年は雪化粧を作った。今でも鶏はおやつにかぼちゃを食べている。かぼちゃは養鶏場で、結局100個は見つかった。収穫したのではない。見つかったのだ。この時期でも人も食べているが、放任栽培のためか、それほど美味しくはない。そんなもったいないことは言ってはいけないのだが、鶏は喜んで食べている。以前、かぼちゃを主食にした養鶏をやろうとしたことがあった。「万次郎かぼちゃ」は3キロものが100個なる。と言う思惑だったが、手間暇と費用がかさんでそうは上手く行かなかった。今年は種が沢山確保できたので、直播でかぼちゃをやって見たい。と言っても今までも養鶏場のあちこちに、適当に苗を植えつけ、後はほったらかしである。かぼちゃも手間をかける栽培法はいくらでもあるようだが、あくまで落ちていたかぼちゃを拾い歩く感じだ。その点白いかぼちゃは見つけやすい。

ひだまり屋さんの小豆を戴いた。これが美味しい。間違いなく最近食べたものでは、一番美味しい。小豆の皮が口に残らない。子供の頃は、大ご馳走がおはぎで、とても楽しみにしていた。かならず、あんこと、きな粉がある。昔は塩あんだったそうだが、当然子供の頃は砂糖である。甘味がとてもご馳走という感覚が当時はあった。購入しなければならないものは、いずれ貴重品だった。蜂を飼ったりしていたが、それは少々の楽しみで、砂糖は買わなければならないものだった。それが、いざという時に思い切って使うことが、楽しみであり贅沢であった。その感覚はまだ覚えている。甘いものを山ほど、というのがふるさと山梨の振る舞いである。という訳でぼた餅、おはぎ、は茶碗一杯をひとつにしたような大きさのおはぎである。子供に食べきれるはずもないのだが、どうしてもあんこときな粉を一づつはほおばらなければ気がすまない。

小豆である。ひだまり屋さんが田んぼの苗をもらったのでと言う事で、小豆を持ってきてくれた。と成ると、この小豆の大部分は昭二さんのお礼かとも思うが、いずれ少量だから、自分で正月に食べることにした。申し訳ない。正月から、まだ大切に食べている。それほど美味しい。こんなにおいしいあんこは、絶対に売ってはいない。何故美味しいのだろう。漉し餡好きでも気にならない皮の柔らかさ。煮方も良かったのかとおもう。長時間かかったから、これは我が家の合作である。丁寧にやったが普通のやり方である。結局材料の良さである。えびさんがやっていることは、噂では聞いていたが、しかし、本当の所はよく分からなかった。しかし、食べてみて本気でやっているらしいというのを感じた。これだけの小豆が作れれば、それだけで納得するぐらいすごい。美味しいは、そらやさんであり、ひだまり屋さんである。食べ物と言うのはそういうものだと思う。どこの誰が作ったかもわからないものでは、美味しいとまでは言いにくい。

 - あしがら農の会