陶芸を楽しむ
~形を作り、野焼きし、山野草野菜等を植えてみよう~
~形作り(植木鉢)
2/13(土)・・午前9~12時、10人
午後1~4時、10人の入替え制
場所:久野「石楠花の家」
用意するもの:エプロン、タオル
~泥野焼き
3/13(土)・・夜明け~深夜
場所:久野4号古墳、近藤植木さんの圃場
参考・・2007年の泥野焼きについて(http://chorori241.exblog.jp/7221352/)
・・・・詳細は改めて
どちらもたぶん寒いので、暖かい服装でおいで下さい。
参加費:2000円(粘土2kg、材料費など込み)
条件:形作り&野焼きに参加出来る方。
~締め切り・・・1月末まで・・・
お名前、TEL、メールアドレス、2/13の午前午後どちらか?・・など
お知らせ下さい。
~申し込み・問い合わせ~
主催:野焼き実行委員会、担当「ちょろり」まで
(2of4of1@excite.co.jp 、又はFAX~ 0465-84-5054 )
農の会では、何度か土で器を作る会が開催されている。最初に行われたのは「茶器を作り、お茶の会を行う」という物だったと思う。以前も、野焼きで焼き物を作るということは、やったことはあったが、ちょろりさんの提唱する、泥野焼はまったく別のイメージのものだった。それは実際的なもので、縄文人もこうして器を作ったのだろうというような、合理的なものだった。合理的なだけでなく、それは美しい、儀式のようなものでもあった。あの縄文土器の呪術的な魂の込め方は、こんな焼き方に違いない。こう思えるような、焼窯自体が生き物のような生命的なものであった。その後、様々な形で、繰り返され、洗練され、かなり安定的なものに育ってきた。一つには1000度を超えるような高温が可能になった。そのためにできる作品が、土器という段階から、焼き上がりの独特な美しい地肌が、見られるようにな須恵器という感じになる。
田んぼの土と、稲藁と、いくらかの炭と、みかんの枝などの薪。これで充分に実用の焼き物が出来る。ガス窯や、灯油窯を思うと、実に暮らしに則した焼き物作りである。もし、こんな形で自分が使う器が作れるなら、どれほど豊かな彩りのある暮らしになるだろう。と言いながら、まだ自分が使える器が出来た事はない。釉薬という壁がある。今回あるアイデアを持っている。この泥野焼きの釜でも、水の洩らない器を試みる事である。成型し、乾燥した作品を積み重ねて焼く。隣の作品と接触すると釉薬でくっついてしまう。これを防ぐには、内側だけ釉薬を塗り、外に流れ出ないように下積みにする。窯の方も、登り窯的な傾斜を利用した窯にすれば、温度が上げやすいだろうと考えている。と言っても、あくまで指導をしてくれるちょろりさんの考え方次第である。
ちょろりさんは自然の人だから、その時の流れに即応している。陶芸というと、工芸であったり、職人の世界もある。しかし、ちょろりさんは、今風に言えばアーチストである。縄文風に言えば、呪術者である。この泥野焼きは祭礼の儀式のようなものでもあるから、取り仕切る祭礼師がとても重要である。われわれ氏子はただ従えばいいのであって、そのとき流れる風しだいで、すばらしいものが出来るだろう。出来た器に、植物を植え込むのは、柿野さんという盆栽作家のコラボレーションである。ただ器を作るのでなく、暮らしの中でどのように使うのか。前代未聞ではあるけれど、実に本来のあり方である新しい展開が、どのようなものになるか、今から楽しみだ。
農的な暮らしというものがどんなに楽しいものか。竹篭一、野良着一枚、必ず素晴しい造形がある。制作というものが、暮らしとどのように繋がっていて、「芸術」というような大仰なものも、暮らしからきり離れてしまえば、糸の切れた凧のようなものである。ちゃんとした暮らしをおくり、自分の中にどれだけ表現すべきものが、醸成されているか。このことに尽きるのだと思う、19世紀から20世紀的芸術は、末世的退廃的な特異なものがもてはやされた。これからは、あらゆる生活人が生活の中から、そのままのものを表現する事の重要性がある。だから、この泥野焼きは上手いとか、下手とかがまったくない世界である。どこまで開放されて自律的に紡ぎ出せるか。とても楽しい機会になる。
興味を持たれた方は、是否参加してください。石釜で、薪でご飯を炊いて、昼ごはんを食べたいな。お汁ぐらいは、家の野菜で作れるかな。などと思っています。