自殺と児童虐待
表裏のような哀れなことだ。この哀しい現実が、一向に減らない日本社会。2008年度に受け付けた虐待相談件数は過去最多の4万2662件だったそうだ。自殺者の数は、10万人当りで見ると、リトアニア、べラルーシュ、ロシアと旧ロシア諸国が上位を占め、9位になっているのが、日本。10万人当り23,7人である。いわゆる経済先進国ではダントツ1位でアメリカの2倍を超えている。児童虐待数といえ、自殺者数といえ、地獄のような国である日本の現実。この事実と真剣に向かい合う必要がある。疲れきっている国日本。豊かになろうと、戦後60数年必死になった結果が、この哀れな状況に到ってしまった。もう一つのデーターを上げれば、貧困率である。OECD調査で貧困率が高かったのは、メキシコ(18・4%)、トルコ(17・5%)、米国(17・1%)の順。日本は2007年調査で15・7%だった。その後の変化を考えると、現時点ではワースト3に突入したのではないだろうか。
貧しいからと言って、児童虐待が起こるわけではない。自殺をするわけでもない。いたたまれない、心理的な抑圧が起きている社会。それは旧ロシア圏で見られるように、社会の急変に対応しきれない人間の状態。日本の社会は国民の大半が、社会状況が革命的に変化しているにもかかわらず、認識しないままに置かれて来た。問題の核心であると考えている。日本は戦後格差を無くす方向に動いた。農地解放を始めとする。旧支配者階級の崩壊消滅。能力主義社会の到来。身分制度のしがらみからの脱却。そうした新しい社会に対する希望に満ちた空気。団塊の世代が30歳になる頃までの社会の方角。知的職業と肉体労働が賃金的にはどんどん近づいていった。絵を描くものがアルバイトをしていて、夢を追っていても、社会的脱落者意識は持たないで済んだ社会。アルバイトがフリーターと呼ばれるようになる頃には、はっきりと、社会からの離脱者としての存在の塊がイメージされてくる。不登校、引きこもり、と社会への順応しようとする意識、能力自体の欠落。
社会における一人の存在の希薄感。疎外感。上昇期であれば、所属社会の喪失は解放と言う事になったが、社会の下降場面に入ると、不安定な心理状態が急速に高まった。派遣社員の自暴自棄な殺戮。これが、民主党へのチェンジを起こしているのだろうが。まだまだ、現状の深刻さは認識されていない。例えば、「今の便利さを保ったまま。次の社会を目指す。」「収入は減少させず、社会保障は今以上に求める。」「嫌な肉体労働はせず、自給率を高める。」そうした機械化便利社会の幻想から抜け出る事が出来ない。出来ないまま、次の社会へのチェンジを求めた所で、格差社会の悲鳴の声は高まる一方である。日本社会自体が世界の経済競争から降りようとしない以上。「勝たなければ、豊かには、生きてゆけない。」この脅迫から逃れることはできない。負けてもいいんだ。できないことは、できないと受け入れればいいんだ。
農業が、農村が、その経済競争社会の調整弁であった時代。「国破れて山河あり。」とふるさとに立ち返ることが出来た時代。高度成長気に始まる、輸出産業重視の政策。小泉時代の国際競争主義の顕著化は、国土の条件や国際関係を一切無視して、農業も勝つこと以外生き残れないと言う、競争の場と化した。経済合理性のない農業を価値の無いこととして、切り捨ててしまった。日本人としての失ってはならない、根幹の精神的拠り所が失われた。稲作をすることが、もっと安く作れる国の農業よりまるで、農民の能力が劣るかごとく考える風潮が生まれた。経済価値だけが、目立つ社会。この辺りが変わらない限り、日本人の価値観の再興をしなければならない。何をめざし。何を良しとして生きてゆくのか。この辺りが、明確にならない限り、この地獄を抜け出る事はできないだろう。