裁判員制度の問題点

   

いよいよ5月21日から裁判員制度が実施となる。法が出来て5年の準備期間を経て、制度の実施が始まる。今からでも辞めて欲しい制度である。日本の社会の実態にそぐわない方法が持ち込まれようとしている。そもそも、明治以来取入れられた西欧文化としての司法制度が、日本社会では異物であり、その異物性ゆえに権威として、尊重されてきた。いわば、敬して遠ざけられて来たのではないか。裁判所へなど、生涯行く事なくすむ人生こそ幸いである。少なくても、喜んで行くところとは見られていない。裁判員に指名されて、調査票に回答した人は全体の42.3%。回答した人の4分の1の人は様々な理由でやらない人。回答しない人も、名簿記載者としているようであるが。調査票に回答もしない人は、拒否者と考えたほうがいい。として、全体では指名者の70%の人はやらない人ではないか。

今から5年前と言うと、あの小泉首相時代である。何でも審議会で決まれば、国会はノーマークで通ってしまった。一体裁判員制度が出来て誰が喜んでいるのだろうか。裁かれる被告で喜ぶ人はいないだろう。今、舞鶴で起訴された、高校生殺害事件の被告は、裁判員に判断してもらいたいだろうか。あの偏った報道の姿である。報道に惑わされて、白も黒になりかねない。推測ではあるが、素人に自分の命を預けたいと思う人はいない。被告が裁判員を拒否できるようにして欲しい。足利の類似の事件では、無期懲役が確定して受刑中の菅谷氏が、DNA鑑定で犯人でないことが判った。しかし、思い起こせば、当時の報道の印象ではパチンコ屋にいたとか、河原に行ったとか。いかにも犯人扱いであったと思う。しかも、当時のDNAの判定では可能性が高いと出ていたはずである。それも仕方がないとして、その裁判と言う危ういものに、素人を加えるのは、さらにまずいだろう。

裁判制度は文化的な背景が重要である。裁判員制度を一番苦々しく感じているのは、間違いなく司法関係者である。あの誇り高い裁判官が、素人を交えて何が出来るのかと、怒り心頭であろう。プロ中のプロであるはずの裁判官と、紛れもない素人が、どうやって話し合うのであろうか。素人の強みなどある訳のない分野の事だ。迷惑限りない。面倒なだけだと思っている。裁判員制度が扱う事件は、世間の注目を集める重大犯罪とされている。リアルタイムでいえば、妹を殺して、切り刻んだとされる。予備校生の裁判などである。その切り刻んだ、証拠写真などを見せられるのかと思うだけで、場慣れしない素人に、正確な判断力が残っているのかと思う。有罪無罪だけの判断ではない。量刑にまで責任は及ぶ。精神鑑定の結果の、学者による判断の違いがある。しかも、これをおおよそ3日でやると言う。裁判員の負担軽減のためだ。

確かに、日本の裁判は長いと言われている。あのオームの事件などまだやっている。被害者にしてみれば、この長さだけでも刑罰の意味が半減すると思う。しかし、あの複雑怪奇な、オーム事件を3日で判断することも、これまた出来ないだろうし。極めて危険なことになる。裁判員の負担と言う事を考えて、1週間以内でどの事件も判断を下すらしい。それならせめて、重大犯罪から始めるのは、間違えであろう。先ず小さな事件から文化としての定着を待つ。その上で、可能なら、重大事件も取り扱うように進むことが、妥当であろう。司法関係者が嫌い、国民70%は出来れば関わりたくないと言う制度。誰が望んだのかと言えば、国会である。自民党である。だから成立した法律である。何故自民党は、裁判員制度を望んだのであろうか。司法の独立への挑戦なのか。民主党はマニュフェストに裁判員制度の見直しを入れるべきだろう。

昨日の自給作業:苗の植え付け1時間 累計時間:9時間

 - Peace Cafe