テレビ番組の海外転送
NHKと民放9社が録画して、海外転送するサービスを著作権法違反として訴えていた裁判で、高裁判決はテレビ局側敗訴の判決となった。当然の判決である。他の同様の裁判でもテレビ局側の敗訴判決が出ている。録画ネットというサービスがあるようだ。海外に暮していてパソコンで日本のテレビを見る仕組みのようだ。ここに予約を入れると、パソコンにファイルで送ってくれるらしい。各テレビ局が主張する所の、何が悪いのか良くわからない。民放各社も著作権法違反と訴えている所からして、視聴料の問題ではないらしい。テレビを録画して、営利目的に販売していると言う、訴えなのか。録画ネット側の法解釈は、『私どもが販売しているのは「テレビパソコン」であり、私どもが直接提供しているサービスは「テレビパソコンの運用保守」です。』つまり、日本で変わりに録画してあげているのは、営業ではないと言う事を意味するのだろうか。全体の問題点が良く理解できない。
法的解釈論は判決が逆転している位だから、さらに素人に判ろうはずもないが、著作権と言ういつも気になる言葉である。水彩人展でも写真を映していいのかどうか。議論になった。当然私はかまわないと主張した。私のを模写したってかまわない。盗作してくれるなら是非して貰いたい。そういう考えである。大体描いた絵の版権のようなもので商売したいなどまったく思いもしない。勝手に印刷物にして、配ってくれれば、心からありがとうと言いたい。理由は簡単である。私の絵は、メッセージである。そのメッセージを広めてくれることは、感謝してこそ、怒る理由はまったくない。それで商売する人が居るほどなら、ありがたい。ある時、私の書いたものが、知らない間に印刷物に他の人の名前で出ていて、驚いたことがあった。しかし、それも何らかまわない。抗議もしない。もちろん希望があれば、どうぞお使い下さいで、提供してきた。所が水彩人では、絶対に写真を取らせない、こういう人が居たので、撮影禁止になった。
テレビ局は度量がない。自分の制作したものに、本質的な意味で自信がないのだろう。良い本物を作れば、それはいかような形であれ、自分に戻ってくることだ。ましてテレビ放送は公共的な仕事である、テレビ局は本来自由にみんなに使わせればいいはずだ。それが基本。しかし、テレビで放映したものを営業的に利用されたのでは、テレビ局が成り立たない。その点では判る。その範囲で、営業権を犯さない限り、かまわないと言うのが私の見方だ。海外にいる日本人が日本のテレビを見たいと言う、そこにテレビ局は放送したものを送って居て競合する。その営業とぶつかると言う事はないようだ。資本主義社会では、利益と言うものがややこしい。「利益を出す権利」と創作物の著作権の関係が、作品と言うものの意味論から言えばおかしい。儲からなければ再生産できない。この仕組みがどうもいやだ。つまり儲からないもの、商品でないものは生産されていない社会。
少なくとも、芸術作品においては、そうした卑しい仕組みが反映したのではだめだ。だから、この時代を商品絵画の時代となずけた。自給生活を提唱する一つにはそのことがある。食べ物を確保すれば、自分の作品の販売で生計を立てようなどという、卑しい(そう言い切れば)要素が混入しない。純粋に芸術的魂に従い、制作できる。評価と言う事からすら、離れられる。商品というものは、おおよそは不用な物である。不用な物を、コマーシャルによるイメージ戦略で、幻想を作り上げ、消費者と言う得体の知れない怪物に餌を食わそうというのだ。本当にいらないものがあふれている。だらから、一旦幻想が消えれば、車の売れ行きがしぼむことになる。家だって借金して建てれば儲かるなどと言う幻想で販売される。現在、私を含めて、絵画不毛時代だ。芸術などと言う言葉を語る者は少数派である。